2020年12月28日月曜日

二人の東大教授

昭和天皇と鈴木貫太郎(7)

 6月1日、二人の東大教授が内大臣の木戸幸一を、彼の仮住まいに訪ねた。木戸は空襲で自宅を焼かれていた。

内大臣とは藤原鎌足以来の官職で、いわばただ一人の天皇への助言者である。内閣総理大臣を決める際にもこの内大臣が推挙するわけだから、見方によっては最高権力者といえる。


二人の東大教授とは、東大法学部長・南原繁と法学部教授の高木八尺(やさか)である。二人とも第一高等学校では新渡戸稲造と内村鑑三の指導を受けた。二人の経歴と木戸との関係を述べる。三人とも56歳だ。

南原が東大法学部長に就任したのは今年の3月である。香川県生まれで一高・東大を卒業して内務省に入省した。若い頃、中村春二が創立した成蹊学園を助け、子供たちと共に成蹊の寄宿舎に寝泊まりして指導していたこともある。内務省を辞めて東大法学部の助教授になったのは32歳の時だ。現在内務大臣をしている安倍源基は、内務省時代の部下である。

高木八尺は東京の生まれだ。四谷の学習院に学び、木戸幸一とは同級生だった。もっとも木戸は中耳炎を患い休学して、高木の弟と同級生になった。彼らは子供のころからの遊び仲間である。高木はわんぱく者で勉強も良く出来た。子供の頃は木戸は高木に頭があがらなかった。高木は勉強ができたので第一高等学校に学び、その後東京帝大法学部に進んだ。かたや木戸は、学習院高等科から京都帝大に進む。東大に行けなかったのか、それとも学習院の同級生の多くが東大に行ったのでその後輩になるのが嫌だったのか、それはわからない。

二人は少年時代の遊び仲間である。高木は日本のために良かれと思い、激しい言葉で木戸に説教したのではあるまいか。「お前、そんなことで内大臣が務まるのか。このままでは皇室は危ういぞ!」ぐらいの迫力で、木戸に迫った可能性がある。

南原と高木、二人の東大教授が木戸に強く語ったのは次の点である。

1、政治家や外交官、大新聞の政治部長たちの多くがソ連に和平の仲介を求めるべし、と語っているがこれは危険である。アメリカに直接申し入れるべきである。

2、皇室が国民のこれ以上の戦禍を救うという態度をはっきりとることが、なによりも肝要である。沖縄の戦いが終わったあと、陛下が和平を説かれることが時局収拾のためのただ一つの方策である。本土決戦を行ない多数の非戦闘員が殺されれば、国民の陛下に対する恨みが噴出するであろう。皇室は国民と直結することで、日本復興の源泉とならなければならない。このままでは国体の護持が、外部圧力ではなく日本の内部から崩れる恐れがある。天皇陛下はなにをされているのだ、という国民の声なき声がある。

3、決断を先延ばしにして本土決戦をやることになれば、親日派のグルーやドーマンは役に立たないと思われ、国務省を追われるかもしれない。そうなれば皇室の追放を説く強硬派が国務省を牛耳ることになる。アメリカ国務省が、グルーやドーマンらの親日派で占められている今こそ、日本は戦争終結を急がねばならない。あるいはこの先一ヶ月を待たず、ワシントンがわずかな譲歩、しかし日本にとっては重大な譲歩を明らかにするかも知れない。だが、こちらが準備をしておかないと、その機会を取り逃がす。

この二人の東大教授の進言を、木戸が天皇に伝えたのは6月9日である。


南原繁






高木八尺





瀬島陸軍中佐と迫水書記官長

昭和天皇と鈴木貫太郎(6)

 5月23日の深夜、迫水久常は書記官長官舎で瀬島龍三と会った。瀬島は陸軍中佐・参謀本部の作戦部員である。聯合艦隊司令部の参謀も兼任している。33歳の瀬島は42歳の迫水とは姻戚関係にある。

声をかけたのは迫水である。

迫水と会えば、本土決戦に勝算はあるのかと問われるのがわかっていたので、瀬島は迫水に会いたくなかった。たとえ相手が親戚の内閣書記官長であっても、作戦部員が外部の人間に軍の作戦機密を漏らすことはできない。参謀本部は内閣とは切り離された、天皇直下の独立した機関である。だが、瀬島は会うことに決めた。彼は、日本のためには、事実を語り、自分の考えていることを迫水に言わなければならないと決意したのであろう。

午後10時から午前1時までの二人の会談の記録は残っていない。

おそらく瀬島は、「上陸した敵軍を撃滅することはできない」と語ったのであろう。「敵軍が九州・関東に上陸した時、こちらの航空兵力はすでに壊滅している」と言ったに違いない。

5月30日、鈴木総理は米内海相と阿南陸相を自分の部屋に呼び、臨時議会を開きたいのだが、と語りかける。

驚いた米内が鈴木の問いに反対する。「いまのような戦況不利の状態で議会を開けば、いろいろな質問が出ると思います。これに対する肚がはっきり決まってなければ、政府は困るのではありませんか」と米内は言う。

「いや、困りません。あくまで戦います」と鈴木は答える。阿南はこれに同調し、戦い続けるのだと言う。鈴木総理と阿南陸相との間にはすでに打ち合わせができているのでは、と米内は不信感を抱く。「負けても戦争を続けるのですか」と米内は鈴木に問う。「そう、負けても戦います」と鈴木は答える。議会でそいう決意を述べるのかと米内は鈴木に重ねて尋ねると、そうするつもりだとの答えが返ってくる。

米内は海軍の先輩である鈴木を大変尊敬している。その米内にしても、鈴木の本心がどこにあるのか今なおわからない。

この時点において、六人の戦争指導会議のメンバーの中で、日本が連合軍に勝てると考えている者は一人もいない。それではなぜ戦争を続けているのか?

各人の考えに濃淡の差はあるが、総理・鈴木、陸相・阿南、軍令部総長・豊田が考えているのは、「ある一戦において敵に大打撃を与えて有利な条件で戦争を終結させること」であった。具体的に言えば、「国体護持、すなわち天皇制を残すことを、連合国に飲ませたうえでの戦争の終結」である。米内海軍大臣は早期の終戦を考えている。


瀬島龍三






2020年12月21日月曜日

フランクリン・ルーズベルト

昭和天皇と鈴木貫太郎(5)

 鈴木内閣の組閣から1週間もたたないうち、米国東部時間1945年4月12日午後3時30分、米大統領フランクリン・ルーズベルトが脳溢血で急死した。

敗戦直前のドイツのヒトラー総統は、「運命が史上最大の戦争犯罪人、フランクリン・ルーズベルトを地上から取り除いた。この時点において、戦争は決定的な転機を迎えるだろう」と悪態をつき、喜びの声明を発表した。

就任して日も浅い鈴木貫太郎は、同盟通信の記者の質問に答えて一場の談話をなし、「アメリカ国民に対す深い哀悼の意を表明する」と語った。これは電波に乗ってすぐに海外に伝えられた。

ニューヨーク・タイムズは、次のように伝えている。

「男爵・鈴木貫太郎提督は、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の死去に際し、アメリカ国民に対する” 深い哀悼の意 ”を表明した。北米向けの英語による無線電信の伝えるところによると、新任の日本の総理大臣は同盟通信の記者に対して、次のように語った。ルーズベルトの指導力は実に効果的なものであって、これが今日におけるアメリカの優勢な地位をもたらしたものであることを私は認めないわけにはゆかない。であるから、彼の死去がアメリカ国民に対して大きな損失であることはよく同感できるのであって、私の深い哀悼の意をアメリカ国民に向けて送るものである」

NYタイムズは同時に、次のような鈴木の続きのメッセージも伝えている。

「自分はルーズベルト氏の死去によって、アメリカの日本に対する戦争努力に変化が生じるとは考えていない。日本側としても同様、英米の武力政策と世界支配に対抗する全民族の共存共栄のための戦争を継続すべく、日本の決意にはいささかの動揺もない」


ナチス政権に失望してアメリカに亡命していた69歳の作家・トーマス・マンは、母国ドイツ国民宛の肉声のメッセージ「ドイツの聴取者諸君!」の放送でこれに触れている。

「ルーズベルトを失った悲しみが世界を包んでいます。老戦士チャーチルが流れる涙を隠そうとしないことも、スターリンがうやうやしく追悼をささげていることも、驚くにたりません。しかしドイツ人諸君、日本帝国の総理大臣が故人を偉大な指導者と呼び、アメリカ国民に哀悼の意を表明したことに対し、諸君は何と言いますか?日本はアメリカと生死をかけた戦争をしています。それでも、あの東方の国には、騎士道精神と人間の品位に対する感覚がまだ存在するのです。これがナチスに支配されているドイツと違うところです」





国力ノ現状

 昭和天皇と鈴木貫太郎(4)

組閣の翌日4月8日の朝、鈴木総理は内閣書記官長(官房長官)の迫水久常(さこみず・ひさつね)に次のように言った。

「わたしは今後の戦争指導についてとくと考えなければならないと思うが、陸相入閣の時に陸軍が示した条件のこともあるので、ここしばらくは静観していかなければいけないと思っている。陸軍の連中は徹底抗戦を主張しているようだが、いまの日本にはほんとうに戦争を続けていくだけの力があるかどうか調べてみる必要がある。和戦いずれの道をたどるにしても政府としては ”国力の現状” をつかんでおかねばならない。ご苦労だがなるべく広い範囲にわたって国力の調査をしてくれないか。調査機関の設立と人選のすべてを一任する」

これを実行するには陸軍の協力が絶対に必要である、と迫水は考える。このとき、日本国内の工場という工場は軍需工場の指定を受け、すべての工場に軍の佐官・将官クラスが監督官として派遣されていた。よってこの調査機関の長官には軍部が信頼してくれる人でなくてはならない。

迫水には心当たりがあった。彼が大蔵省から企画院に課長として出向していた時の上司であった、軍人エコノミストの秋永月三・陸軍中将である。陸大卒業のあと東京帝大経済学部に3年間学んだこの将軍は、その人柄・能力ともに申し分ない。この秋永中将を総合計画局長官に任命し、直ちに調査が開始された。

石炭・鉄・アルミニューム・航空機・鉄鋼船舶・木造船舶・各種特攻兵器・製紙・繊維の生産量だけではない。米・麦・芋・魚・肉・野菜・食油・塩・砂糖などの食糧の生産量、さらには満洲からの大豆・塩の輸送手段までを含めて、広範囲の調査が行われた。

その調査報告は6月初旬にまとめられたが、調査の途中経過はそのつど、迫水が鈴木総理に報告していた。

その報告結果は、「物資欠乏の中ではあるが、昭和20年の8月もしくは9月までは、かろうじて国民生活を営むことができるが、それ以降の国民生活は破綻する」というものであった。さらには、「この冬には二千万人の餓死者が出る可能性がある」という驚くべき報告もあがった。戦争の継続どころの話ではない。

いまひとつの「国際情勢ノ判断」の研究結果は、「ソ連は欧州の兵力を極東へ回しはじめている。9月末あたりから満洲への侵攻か可能な状態になる」というものであった。

ただこの調査結果は、ごく限られた者だけが知り、国民には知らされなかった。

迫水久常







2020年12月14日月曜日

貞明皇太后の涙

 昭和天皇と鈴木貫太郎(3)

鈴木総理が立ったまま組閣の報告をすると、貞明皇太后(ていめい・こうたいごう)は特に鈴木に椅子を与え、しみじみとした口調で言われた。

「いま陛下は国運興廃の岐路に立って、日夜苦悩されている。鈴木は陛下の大御心(おおみこころ)をもっともよく知っているはずである。どうか親がわりになって陛下を助けてあげてほしい。また、国民を塗炭(とたん)の苦しみから救ってほしい」

こう話されたあと、皇太后はほおに涙を流された。

皇太后は、一刻も早く戦争を終わらせねばならないと考えている。

「この戦争は負けです。そのための準備をしなければならない」とある人からはっきりと言われたのは、昭和19年12月26日のことである。

ある人とは、静岡県三島の龍澤寺(りゅうたくじ)住職の山本玄峰(やまもと・げんぽう)である。79歳の山本玄峰は人を心服させる力を持っている。皇太后は沼津の御用邸で山本と会った。皇太后は山本を大変尊敬している。この貞明皇太后の気持ちは、あたかも飛鳥朝における持統女帝の僧・道照(どうしょう)に対する崇拝の気持ちと同じであった。それまでも、早く終戦を、と考えていた皇太后の気持ちはこの山本のひと言で決定的になった。


この日4月7日、海軍省・軍令部には二つの悪いニュースが入っていた。

ひとつは戦艦大和の沈没である。ミッドウェー海戦・マリアナ沖海戦の悲報を耳にした時は、だれもが足元が崩れ落ちるような気持ちがした。今日はそのような衝撃はない。あるのは、やはりやられたかとの気持ちと、深い悲しみと悔しさだけである。

いまひとつは、三菱重工名古屋航空機製作所の致命的な損害である。B29は正確に600発の爆弾を工場敷地に投下し、工場の機能は麻痺してしまった。海軍省も軍令部も、大和の沈没よりこの損害の大きさに落胆していた。何人かの者は、戦争の継続は無理ではないかと思った。


しかし、日本軍の戦意はまったくおとろえてはいない。

沖縄に陣取る陸軍の第三十二軍は、数倍の火力を有すアメリカの上陸軍に対して果敢な戦闘を繰り広げている。沖縄の中学生で組織する、14歳から16歳の少年兵「鉄血勤皇隊」は米軍に体当たり攻撃をかけている。少年たちの567名が陸軍二等兵として戦死した。

海軍・陸軍航空隊の特攻機は、4月6日の一日で297機が沖縄周辺の敵艦隊に突入した。4月7日以降も数多くの特攻機が、九州の各航空隊から、連日沖縄に向かって続々と出撃している。






2020年12月7日月曜日

鈴木貫太郎の登場・4月7日

 昭和天皇と鈴木貫太郎(2)

昭和20年4月6日午前5時、鈴木貫太郎は自宅の床を離れた。冬に戻ったような寒さで、部屋の寒暖計は摂氏4度を示している。

組閣を成功させるには陸軍の協力を得ることが最重要である。昭和12年、陸軍が陸軍大臣を推薦せず宇垣一成は組閣できなかった。陸軍は鈴木を和平派であると思い、不信感と警戒感を抱いている。

午前9時半、鈴木貫太郎はまっさきに市ヶ谷台に陸軍大臣の杉山元を訪ねる。鈴木は杉山に向かって、「このたび大命を拝しました」と挨拶し、陸軍の協力を要請し、陸軍大臣の推薦を求めた。杉山はそれを制し、陸軍側の要望を述べ、それを記した書面を手渡した。鈴木はこれに難色を示すであろう。それを理由として、陸軍大臣を出さないと言い張り、鈴木内閣の成立を流産させる肚(はら)であった。

1、アクマデモ大東亜戦争ヲ完遂スルコト 2、ツトメテ陸海軍一体化ノ実現ヲ期シ得ル如キ内閣ヲ組織スルコト 3、本土決戦必勝ノ為ノ陸軍ノ企図スル諸施策ヲ具体的ニ躊躇ナク実行スルコト

鈴木はこれに目を通し、「まことに結構です」、とはっきり言った。

あっけない返事が返ってきて、杉山はとまどった。次の陸相に阿南(あなみ)大将を推薦すると言わなければならなくなった。細かいことは阿南大将と相談すると答え、鈴木は立ち上がった。会談はわずか数分で終わった。

隣室にいた次官の柴山兼次郎と人事局長の額田坦が顔を見合わせ、どちらともなく、これはまずい、と言った。鈴木を送って廊下まで出た杉山が戻ってきた。

「もう一度、とくに第一項について、鈴木大将の肚をしっかりとたしかめて頂きたい」と柴山が言う。杉山も軽くいなされたような気がしていたので、一瞬、鈴木のあとを追おうかと考えた。だが鈴木はすでに階段を降り、車寄せに向かっていた。

4月6日の朝からはじまった組閣工作は、しばしば空襲によって中断したが、7日夕刻には見通しがついた。こうして鈴木内閣の親任式は4月7日の午後10時半から皇居で行われた。組閣が終わったあと、鈴木総理は大宮御所に貞明(ていめい)皇太后を訪ねた。












2020年11月30日月曜日

天皇は決意する・昭和20年6月22日

 昭和天皇と鈴木貫太郎(1)

昭和天皇が、「戦争の終結をはかりたい」と自分の考えをおおやけにされたのは、昭和20年6月22日のことである。

この日、皇居において最高戦争指導会議が行われた。会議が終わった後、天皇は6名の構成員に内大臣を加えた7名に対して、「これは命令ではなくあくまで懇談であるが」と前置きして次のように述べられた。

7名とは、総理・鈴木貫太郎、外相・東郷茂徳、陸相・阿南惟幾、海相・米内光政、参謀総長・梅津美治郎、軍令部総長・豊田副武、内大臣・木戸幸一である。

「去る6月8日の会議で戦争指導の大網は決まった。本土決戦について万全の準備をととのえることはもちろんであるが、他面、戦争の終結について、このさい、従来の概念にとらわれることなく、すみやかに具体的な研究をとげ、これの実現に努力するよう希望する」

この天皇のお言葉を奇貨とした鈴木貫太郎は、慎重ながらも敏速に、終戦への道をまっしぐらにひた走るのである。

79歳の老提督・鈴木貫太郎が4月7日に宰相の印綬を帯びてから、終戦に至るまでの四ヶ月間の政治・軍事・外交の流れを見つめてみたい。日本という国家・国民にとって極めて重要な四ヶ月間だと思うからである。史実に即して書くつもりだが、やむを得ず、事実を背景とした想像で筆をすすめる部分もあるやも知れない。前半では日本側の動き、後半ではアメリカ側の動きを検証していく。後半では、ポツダム宣言と原爆に視点を当てたい。


鈴木大将大命拝受の現場に、ただ一人立ち会った侍従長の藤田尚徳(海軍大将)は、戦後、次のように語っている。

木戸内大臣は、後継首相候補者として「鈴木枢密院議長しかるべし」と奏上されて、鈴木閣下をお召しになりました。4月5日の夜でありました。陛下はご学問所にお出になり、小生一人のみ侍立しておりました。陛下は「卿に組閣を命ずる」と玉音朗らかに仰せられました。この時、鈴木さん(このほうが親しみを感ずる故この呼び方でお許しを願う・注・藤田大将は鈴木大将の海軍兵学校の15期後輩)は、あの丸い背を一層丸くして、深く叩頭して謹んでお答えをせられました。

「聖旨まことに畏多く承りました。ただこのことはなにとぞ拝辞のお許しをお願いいたしたく存じます。鈴木は一介の武臣、従来政界に何の交渉もなく、また何等の政見も持っておりません。鈴木は、軍人は政治に関与せざるのことの、明治天皇の聖論をそのまま奉じて、今日までのモットーとして参りました。聖旨に背き奉ることの畏多きは深く自覚いたしますが、なにとぞこの一事は拝辞のお許しを願い奉ります」

真に心の底から血を吐くの思いであられたと思います。

陛下は莞爾として仰せられました。

「鈴木がそう言うであろうことは、私も想像していた。鈴木の心境はよくわかる。しかし、この国家危存の重大時機に際して、もうほかに人はいない。頼むからどうか曲げて承知してもらいたい」

鈴木さんは深く深くうなだれて、「とくと考えさせて戴きます」として退下せられました。私はただ一人侍立して、この君臣の打てば響くような真の心の触れ合った場面を拝見して、人間として最大の感激に打たれました。

(後記)このことを筆にすべきや否や、は大いに考えました。しかし、これは他の何人にも迷惑を及ぼす性質のものではないし、また今にしてこれを伝えておかなければ、永久に煙滅すべきことと思い、あえて筆にいたしました。


鳥居民(とりい・たみ)という在野の昭和史研究家がおられた。平成25年に84歳で急逝された。私はふとしたご縁で、晩年の鳥居先生に大変可愛がっていただき、ご指導を受けた。この「昭和天皇と鈴木貫太郎」の中には、先生から直接お聞きしたこと、先生の著書から引用させていただいた箇所がいくつもある。そのことをお断わりしておきたい。

毎年この季節、11月か12月になると鳥居先生から「カラスミ」を送っていただいていた。「台湾の友人が毎年送ってくれるんだよ。酒の肴になさい。田頭君がつくっている大根を薄く切ってカラスミをはさむと旨いよ」とおっしゃっていた。鳥居先生のことを思い出しながらこの作文を書いている。













2020年11月23日月曜日

りんごの話(2)

 りんごの原産地はコーカサス地方だ、といわれてきた。黒海とカスピ海に挟まれた西アジアの高原地帯だ。近頃になって、タクラマカン砂漠北の天山山脈の南ではないか、という新説も出てきた。いずれにしても、その原産地は西アジアの冷涼地帯である。

おそらく数千年以上も前、りんごのご先祖さまは西と東に向かって旅を開始した。馬かラクダの背に乗って移動したのであろう。

西に向かったりんごは大きくなった。古代ギリシャ・ローマ人は果物の王様、として珍重した。スイスのウイリアム・テルが息子の頭の上に林檎を載せて矢を射ったのは、1307年の話だ。フランスでもドイツでもりんごは大切な果物として愛される。葡萄が栽培できなかったイングランドやスコットランドでは、果物としてだけでなくりんご酒の原料として珍重される。そして、新大陸の発見と共に、りんごは船に乗って北米大陸に渡る。

かたや、東に向かったりんごは小さくなった。中国人はこの果実を林檎と呼んだ。そして船に乗って日本に渡ってきたりんごはさらに小さくなった。日本では観賞用として愛でられた。平安時代の人はこれを林檎と呼んでいる。かならずしも観賞用だけではなかったらしい。小さくてすっぱいけど、どうも身体に良いものらしいと食用にしていた人もいたらしい。室町時代の女官の日記に、「りんこ一折もらった」という記述がある。もしかしたらこの女官の子供も、私のようにりんごのおかげで助かったのかも知れない。ただ、日本においては柿・桃・蜜柑のような、一般的な果物としては普及しなかったみたいだ。


さて、なぜ苹果が林檎に代わったのかという話にもどる。

明治18年の内閣制度への移行、明治23年の大日本帝国憲法と教育勅語の発布、明治27年の日清戦争あたりにその理由があるのではないかと、私は考えている。

庶民は昔から天皇のことを、「天子さま」・「みかど」・「おかみ」などと呼んできた。「天皇陛下(てんのうへいか)」という言葉を日本人が使い始めたのは、上記の出来事の明治10年代の後半から20年代の後半にかけてである。

「今年のヘイカは出来が悪いな」、「ヘイカの値段が下がってきたよ」、「このヘイカは旨くないな」などの庶民の会話に警察官が注意したのかも知れない。いや、それよりも、多くの日本人がこの「ヘイカ」という言葉に、違和感を持ち始めたのではあるまいか。昔からわが国にある盆栽の小さな「姫林檎」と「苹果」とが同じ種類の植物であることに、この頃になって人々は気が付いたのかも知れない。そして、わずかな時間で、苹果は林檎に代わった。

この絵は、正岡子規が晩年に描いたものである。素人にしてはずいぶん上手だと思う。七月二十四日晴、西洋リンゴ一、日本リンゴ四、とある。子規が34歳で亡くなったのは明治35年の9月である。これを描いたのは明治33年か34年頃ではあるまいか。

島崎藤村の「若菜集」が発刊されたのは明治30年である。この中の「初恋」の詩に、はっきりと「林檎」とうたっている。よって、明治30年ごろには、日本人は苹果という言葉を捨て、林檎という言葉を使っていたことがわかる。この項のおしまいは、この「初恋」の詩で終えたい。


まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは

薄紅の秋の実に 人こひ初(そ)めしはじめなり

わがこころなきためいきの その髪の毛にかかるとき

たのしき恋の盃を 君が情けに酌みしかな

林檎畑の樹の下に おのつ”からなる細道は

誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけり








2020年11月16日月曜日

りんごの話

 「のぶちゃんはりんごのおかげで助かったんだよ」と、子供の頃に何度か母に聞かされた。この前も、広島県の実家に帰った時、95歳の母はりんごをむきながら、この昔話をする。

あととり息子が生まれたので、家族や親戚一同が喜んだ。かわいい赤ちゃんで、賢そうな顔をしている。一歳になったころ、祖母が四国の親戚に自慢の赤ちゃんを見せにいった。そこで赤痢にかかったらしい。帰って来たら様子がおかしい。祖父と仲良しだった村の医者に来てもらったが、もう駄目だろうという。

やぶ医者ではない。第三高等学校に学び京都帝大医学部を卒業した、村にはもったいないくらいの名医である。その名医がサジを投げたのだから、本当に危なかったのだろう。

その時母は何を思ったのか、家にあるりんごをすりおろし、その果汁をガーゼにしみこませて赤ちゃんの口にあてた。一歳の私はそれを美味しそうに吸ったらしい。翌日になっても生きている。それ、りんごだ ! と祖母がかなり遠いところの店まで歩いて買いに行った。毎日りんご汁を飲ませていたら、不思議なことに元気になったのだと、母は今でも言う。


こんな話を何度も聞かされていたので、私は若い頃からりんごには、内心畏敬の念を抱いていた。果物屋やスーパーでひと山いくらで並んでいるりんごを見ても、なんだか昔お世話になった方にお会いしたような気持ちになり、少しばかり緊張する。頭を下げたり口に出したりはしないが、「やっ、その節はどうも」といった気持になり、心の中で頭をさげる。

だからといって、特別りんごが好きなわけではない。あれば食べるが、自分で買いに行くほどではない。柿は大好きだ。秋になると実家の富裕柿は丁寧に収穫する。渋柿も採って干し柿にする。しかし、りんご様にはこれほどの恩義があるのだ。もっとりんごを食べなければ、と近頃思っている。


現在我々が食べている大きなりんごは、明治維新のあとアメリカから入ってきた。当時の日本人はこの果実を「アップル」と呼んで珍重した。新政府はこのアップルに注目する。勧業寮や北海道開拓使は、アメリカやカナダから苗木を購入して、冷涼な日本各地に植えさせた。北海道は寒すぎたらしい。岩手県・青森県・長野県などで品質の良いアップルが収穫できた。

いつまでもアップルと呼んでいるのは、日本人の民度が低いような気がする。何か良い言葉はないかと思っていたら、ある人が、清国ではこれを「苹果(へいか)」と呼んでいるという。これを真似することにした。

明治10年代から20年代にかけて、日本人はこの果実を苹果(へいか)と呼び、政府はこの栽培を奨励した。今でも青森県や長野県の旧家の土蔵から、新聞の「苹果栽培のすすめ」の檄文が出てくるそうだ。その文章は、当時の自由民権運動の壮士の演説のように勇ましく憂国調である。

たとえば、明治23年版では、「嗚呼(ああ)、殖産篤志の諸君よ。奮ってこの苹果を栽培せば、ただ一家を利するのみならず、国の富を致すや期して得べきのみ」とある。

本の知識だけでは心配なので、北京大学を卒業された中国人の友人Sさんに聞いてみた。「りんごは中国では苹果といいます。発音は、ping guo です」と教えてくださった。

ところがこの「苹果(へいか)」、明治30年頃から日本人は突然、「林檎(りんご)」と呼ぶようになる。きわめて短期間で、呼び名が変わったのだ。

司馬遼太郎は、「街道をゆく・北のまほろば」の中で、「やがてこの栽培が普及するにつれ、林檎(りんご)という日本語として響きのうつくしい古い言葉がよみがえってきて、それに統一されるようになった」と言っておられる。司馬さんのおっしゃることだから、そうなのであろう。

ただ私は、これ以外に別の理由がある、と考えている。それについては次回で述べたい。






 





2020年11月9日月曜日

開いた窓(2)

 娘はかすかに身震いして、急に話をやめた。その時、伯母さんが、おそくなったことをしきりに詫びながら、せかせかと部屋に入って来たので、フラムトンはほっとした。

「ヴィアラはちゃんとお相手をしておりましたでしょうか」

「大変面白かったですよ」

「窓を開けっぱなしにしていて、お気になさらないで下さいましね」とサプルトン夫人ははきはきと言った。「主人と弟たちが、もうじき猟から戻って来ますのよ。いつもあの窓から入って来ますの。今日は鴫撃ちに沼地までまいりましたから、帰って来たら、絨毯(じゅうたん)が台なしにされてしまいますわ。男の方って、どなたも同じですわね」

サプルトン夫人は楽しそうに、猟のこと、鳥が減ってきたこと、この冬の鴨猟の予想などをべらべらしゃべり続けた。そのどれを聞いても、フラムトンは気味が悪くてならなかった。やっきになって、もっと愉快なことへ話をそらそうとしたが、あまりうまくいかなかった。気がつくと、夫人は客にはろくに目もくれず、フラムトンを通り越して、空いた窓と、その向こうの芝生の方ばかりちらちら見ている。よりによって、そんな悲しい出来事があったあとに来合わせるなんてなんと間が悪いんだろう。

「どの医者も、完全な休養を取って、興奮することをやめ、はげしい運動のようなものは避けるようにと言っています」とフラムトンは言った。赤の他人とか、ふとした知り合いは、人の病気、その原因、治療について、根掘り葉掘り聞きたがるものだ、という妄想が世間に行き渡っているが、フラムトンもそう錯覚していたのである。「それが食事療法のことになると、どの医者もてんでに違うことを言うんですからね」

「あら、そうですか」とフラムトン夫人はあくびをかみ殺して言った。それからしばらくして、ぱっと顔を輝かせ、急に注意深くなった。しかし、それはフラムトンの言葉に対してではなかった。

「ようやく帰って来ましたわ。ちょうどお茶に間に合いますよ。目のあたりまで泥だらけじゃありませんか」

フラムトンはかすかに身震いして、気の毒そうに、よくわかったと言わんばかりに、姪のほうを見た。姪は目に恐怖の色を浮かべ、呆然と窓の外を見ている。フラムトンは言いようのないほどぞっとして、椅子に座ったままくるりと向きを変え、同じ方向を見た。

忍び寄る夕闇の中を、三人の人影が窓に向かって芝生を歩いて来た。三人とも銃をかかえ、一人は白いレインコートを肩にかけている。茶色のスパニエル犬がそのすぐあとから、ぐったりとなってついて来る。一行は音もなく家に近つ¨いた。やがて、夕闇の中から、”バーディ、お前はなぜ跳ねるのだ” を歌う、若々しい、しわがれた声が聞こえて来た。

フラムトンは夢中でステッキと帽子をつかみ、いちもくさんで逃げ出した。玄関の戸も、砂利道も、表門も、ほとんど目に入らなかった。道を走って来た自転車が衝突しそうになり、あわてて生垣に突っ込んだ。

「ただいま」と白いレインコートを肩にかけた男が言った。「だいぶ泥だらけになったが、あらかた乾いちまったよ。今飛び出して行ったのは誰だい」

「変な方ですよ。ナトルさんという方なんですけど。ご自分の病気のことばかりお話になりましてね。あなた方がお帰りになると、挨拶もせずに飛び出して行かれたんです。幽霊にでも会ったみたいですよ」

「きっと犬のせいだと思うわ」と姪がけろっとして言った。「あの人、犬が大嫌いだと言っていたわ。いつか、ガンジス河の岸で野良犬の群れに追いかけられて、墓地の中に逃げ込み、掘ったばかりのお墓の中で一晩過ごしたことがあるんですって。すぐ頭の上で、犬がうなったり、歯をむいたり、泡を吹いたりしてたそうですよ。そんな目にあえば、誰だって臆病になりますわ」

即興の作り話をするのがこの娘は得意であったのだ。

サキ著・河田智雄訳





開いた窓

「伯母はじきに下りてまいります。それまではわたしがお相手させていただきますのでよろしく」と落ち着き払った15歳の娘が言った。

フラムトン・ナトルは、あとから姿を現す伯母さんに失礼にならないように、当たり障りのないことを言って、目の前にいる姪(めい)のご機嫌を適当に取っておこう考えた。心の中では、こんな風に赤の他人の所を次々に儀礼的に訪問などして、精神衰弱の治療にどれほどの効き目があるのだろうかと、今まで以上に危ぶんでいた。

「どうなるかわかってるわよ」フラムトンがこの人里離れた田舎に引き移る準備をしていた時、姉さんが言ったものだ。「そこにすっかり腰を落ち着けて、誰とも口をきかなくなり、ふさぎ込んで、ますます神経が参ってしまうのが落ちよ。いいわ、知り合いの人たちにかたっぱしから紹介状を書いてあげるわ。中にはいい人たちだっていたのよ」

フラムトンは、これから紹介状を差し出そうとしているサプルトン夫人が、そのいい人の部類に入るのだろうか、と考えていた。

「このあたりに、お知り合いは大勢いらっしゃいますの」黙って腹の探り合いをするのはもうこのくらいで十分と判断した上で、姪がたずねた。

「それが一人もいないんですよ。四年ほど前、姉がこの牧師館にご厄介になってたことがありましてね。それで、このへんの方々に紹介状を書いてくれたんですよ」

最後の言葉を口にした時、フラムトンはいかにも迷惑そうだった。

「じゃ、伯母のことは、あまりよくご存じじゃないんですね」と落ち着いた娘はたたみかけて聞いた。

「お名前と住所しか存じません」とフラムトンは言った。サプルトン夫人が亭主持ちなのか、それとも後家さんなのか、それさえもわからなかった。部屋には何となく男っ気がありそうではあったが。

「ちょうど三年前、伯母の身にとても悲しい出来事が起こったのです。それはお姉様がここを引き払われたあとだと思います」

「悲しい出来事ですって」とフラムトンは問い返した。こんな平和な田舎に、悲しい出来事など、何となく場違いのように思われた。

「10月の午後だというのに、なぜあの窓をあけっぱなしにしておくのか不思議にお思いでしょうね」と姪は、芝生に面した、床まで届く大きなフランス窓を指さした。

「今時分にしちゃ、暖かいですからね。でも、あの窓がその悲しい出来事と何か関係があるのですか」

「ちょうど三年前のことです。伯母の連れ合いと伯母の二人の弟があの窓から鉄砲を撃ちに出かけたんです。三人はそれっきり戻って来ませんでした。どこよりも気に入っていた鴫(しぎ)の狩場へ行こうとして荒野を歩いているうちに、沼地に足をとられて、呑み込まれてしまったのです。その年の夏はとても雨が多かったので、いつもの年なら危険のない場所が、何の前ぶれもなく突然くずれてしまったんですね。三人のなきがらはとうとう見つかりませんでした。それだから困ってしまったのです」ここで娘の口調は冷静さを失い、胸が一杯になって、たどたどしくなった。

「かわいそうに、伯母は、三人と、それから一緒にいなくなった茶色のスパニエル犬が、いつかきっと戻って来て、いつもの通り、あの窓から入って来ると、信じているのです。それで、毎晩、真っ暗になるまで、あの窓をあけっぱなしにしておくのです。伯母は、三人が出かけた時の様子をよくわたしに話してくれます。伯父は白いレインコートを腕にかけ、末の弟のロニーは、” バーティ、お前はなぜ跳ねるのだ ” の歌を歌っていたそうです。その歌を聞くと伯母は神経にさわると言って怒るので、弟がいつも面白がって歌っていたのです。今夜のようにおだやかな、静かな晩など、三人そろってあの窓から入って来るような気がして、思わずぞっとすることがあります」






2020年11月2日月曜日

ロビンソン・クルーソー

 今年はコロナ禍があったので、例年よりも読書の時間が増えた気がする。ふと思い立ち、子供の頃に血湧き肉踊らせた「ロビンソン・クルーソー」を購入して読んでみた。


荒れ狂う嵐の中の航海・ただ一人助かり絶海の孤島に上陸する・島を探検して自生のオレンジや葡萄を発見する・自分でパンをつくり舟を作る・スペインの難破船から食糧や酒や火薬を運び出す・フライデーと一緒に野蛮人や英国船員の悪党をやっつける。

子供の頃、この冒険物語を興奮しながら読んだ。大人が読んでも面白い。今回もハラハラドキドキしながらこれを読んだ。ただ今回、自分の記憶になかったことを二つほど発見した。読んだはずなのだが、子供の私には興味なかったので忘れてしまったのだろう。この本の最初と最後の部分である。

最後の記述によると、このロビンソン・クルーソーという人は、結果的に大富豪になっている。28年間も一人で無人島にくらした男がなぜ富豪になったのか?

はじめの頃の航海で、クルーソーはカナリヤ諸島近くで西アフリカのムーア人に捕まり2年間奴隷になる。勇気を出してボートで脱出して運良くポルトガル人の船長に助けられる。この船長が良い人だった。ブラジルに渡った後、船長の助言で貿易に従事してかなりの財産を作る。そのお金でブラジルに農園を買い、4年間農園オーナーとして幸福な生活を送る。そのまま農園主として生活しておれば良かったのだが、またしても冒険の血が騒ぎ船に乗って奴隷を買いに西アフリカに向かう。この航海で難破して28年間の孤島での生活となる。

この間に、ブラジルの農園の生産利益・不動産の価値が巨額の資産にふくれあがっていた。当時の英国の民事の法律は、現在と同じようにキッチリしていたようだ。登記簿・権利証・契約書・委任状などの書類をもとに、自分の財産をキッチリと全額回収している。

お世話になったポルトガル人船長やその息子、他の人々に充分なお礼をしてもなお巨額のお金が残った。それを慈善事業に寄付している。ロビンソン・クルーソーは経済的には成功者であった。このことは子供の時の読書の記憶からまったく忘れていた。

いま一つ、冒頭の記述も忘却していた。経済的に恵まれた家に生まれたこの少年は、幼い時から船乗りになって世界中を旅したいと考えていた。父親は法律家にする考えで、少年を良い環境で学問させる。そのままいけば、どこかの大学に入学して法律を学んでいたはずだ。ところが18歳の時、友人が彼の父の船に乗ってハルからロンドンに行くので一緒に行かないかと声をかけ、クルーソー少年は衝動的にこれに飛びつく。

その1年前、船乗りになって海外を冒険したいという息子に、父は次のように愛情に満ちた忠告をしている。この父親の言葉はじつに含蓄に富む。

「どうしておまえは親の家を飛び出さなければならないのか。自分の生まれ故郷にいて勤勉に努力すれば、安楽な生活が約束されているではないか。海外で一旗あげようとするのはそうする以外に道のない困窮したものか、あるいは野心的な財産家のすることだ。さいわいお前はその中間に置かれている。自分の長い人生経験からして、これが人間の一番幸福な身分なのだ。低い身分の人間のように貧乏に苦しむこともない。高い身分の人につきまとう体面や、驕りや、妬みに悩まされることもない。貧乏も富も共に避けたいと願った賢者がいた。この言葉こそが本当の幸福がどこにあるか教えてくれる」

この父親のありがたい忠告をふりきって、少年は危険な冒険の旅に出る。困難に遭遇するたびに、少年は父の意見のありがたさを思い出す。ところが、困難が目に前を通り過ぎると、少年はけろっとして再び危険な旅に出るのである。

気骨ある若者は親の意見を聞かないものらしい。そして、それはかならずしも悪いことではないのかも知れない、と近頃思う。このような若者の勇気ある冒険心によって、人間の歴史は進歩してきたような気がするからである。


いささか唐突だが、高倉健の「唐獅子牡丹」の歌詞も若者らしくて良い。私はこの歌がとても気に入っている。

親の意見を承知ですねて、曲がりくねった六区の風よ、つもり重ねた不孝の数を、なんと詫びよかおふくろに、背中で泣いてる唐獅子牡丹

おぼろ月でも隅田の水に、昔ながらの濁らぬ光、やがて夜明けの来るそれまでは、意地でささげる夢ひとつ、背中で呼んでる唐獅子牡丹


ヘッドハンターの仕事に従事して30年が過ぎた。2万人以上の方々とお会いした。成功された人には共通した特徴があることに近頃気がついた。それは「好奇心・冒険心・勇気・親切心」である。これがないと、いくら高学歴・高い語学力・頭の良さがあっても、大きくは成功しないのではないかと思う。

無鉄砲に船乗りになる必要はない。背中に入れ墨をして、ドスをふところに殴り込みをかけるのは良くないことだ。ただ、成功を目指す若者には、「好奇心・冒険心・勇気・親切心」がどうしても必要のような気がしてならない。






2020年10月26日月曜日

The Open Window (2)

 She broke off with a little shudder. It was a relief to Framton when the aunt bustled into the room with a whirl of apologies for being late in making her appearance.

"I hope Vera has been amusing you?" she said.

"She has been very interesting," said Framton.

"I hope you don't mind the open window," said Mrs.Sappleton briskly; "my husband and brothers  will be home directly from shooting, and they always come in this way.They've been out for snipe in the marshes today, so they'll make fine mess over my poor carpets. So like you men-folk, isn't it?"

She rattled on cheerfully about the shooting and the scarcity of birds, and the prospects for duck in the winter. To Framton it was all purely horrible. He made a desperate but only partially successful effort to turn the talk on to a less ghastly topic; he was conscious that his hostess was giving him only a fragment of her attention, and her eyes were constantly straying past him to the open window and the lawn beyond. It was certainly an unfortunate coincidence that he should have paid his visit on this tragic anniversary.

"The doctors agree in ordering me complete rest, an absence of mental excitement, and avoidance of anything in the nature of violent physical exercise," announced Framton, who laboured under the tolerably widespread delusion that total strangers and chance acquaintances are hungry for the least details of one's ailments and infirmities, their cause and cure. "On the matter of diet they are not so much in agreement," he continued.

"No?" said Mrs.Sappleton, in a voice which only replaced a yawn at the last moment. Then she suddenly brightened into alert attention--- but not to What Framton was saying.

"Here they are at last!" she cried. "Just in time for tea, and don't they look as if they were muddy up to the eyes!"

Framton shivered slightly and turned towards the niece with a look intended to convey sympathetic comprehension. The child was staring out through the open window with dazed horror in her eyes. In a chill shock of nameless fear Framton swung in his seat and looked in the same direction.

In the deepening twilight three figures were walking across the lawn towards the window;they all carried guns under their arms, and one of them was additionally burdened with a white coat hung over his shoulders. A tired brown spaniel kept close at their heels. Noiselessly they neared the house, and then a hoarse young voice chanted out of the dusk: "I said, Bertie, why do you bound?"

Framton grabbed wildly at his stick and hat; the hall-door, the gravel-drive, and the front gate were dimly-noted stages in his headlong retreat. A cyclist coming along the road had to run into the hedge to avoid an imminent collision.

"Here we are, my dear," said the bearer of the white mackintosh, coming in through the window; "fairly muddy, but most of it's dry. Who was that who bolted out as we came up?"

"A most extraordinary man, a Mr.Nuttle," said Mrs.Sappleton; "could only talk about his illnesses, and dashed off without a word of good-bye or apology when you arrived. One would think he had seen a ghost.

"I expect it was the spaniel," said the niece calmly; "he told me he had a horror of dogs. He was once hunted into into a cemetery somewhere on the banks of the Ganges by a pack of pariah dogs, and had to spend the night in a newly dog grave with the creatures snarling and grinning and foaming just above him. Enough to make anyone lose their nerve."

Romance at short notice was her specialty.

By Saki






     






  

 

     





 

      

 

 


  

2020年10月19日月曜日

The Open Window

 "My aunt will be down presently,Mr.Nuttel," said a very self-possessed young lady of fifteen; "in the meantime you must try and put up with me."

Framton Nuttel endeavoured to say the correct something which should duly flatter the niece of the moment without unduly discounting the aunt that was to come. Privately he doubted more than ever whether these formal visits on a succession of total strangers would do much towards helping the nerve cure which he was supposed to be undergoing.

"I know how it will be," his sister had said when he was preparing to migrate to this rural retreat; "You will bury yourself down there and not speak to a living soul,and nerves will be worse than ever from moping. I shall just give you letters of introduction to all the people I know there. Some of them, as far as I can remember, here quite nice."

Framton wondered whether Mrs.Sappleton, the lady to whom he was presenting one of the letters of introduction, came into the nice division.

"Do you know many of the people round here?" asked the niece, when she judged that they had had sufficient silent communion.

"Hardly a soul," said Framton. "My sister was staying here, at the rectory, you know, some four years ago, and she gave me letters of introduction to some of the people here."

He made the last statement in a tone of distinct regret.

"Then you know practically nothing about my aunt?" pursued the self-possessed young lady.

"Only her name and address," admitted the caller. He was wondering whether Mrs.Sappleton was in the married or widowed state. An undefinable something about the room seemed to suggest masculine habitation.

"Her great tragedy happened just three years ago," said the child; "that would be since your sister's time."

"Her tragedy?" asked Framton; somehow in this restful country spot tragedies seemed out of place.

"You may wonder why we keep that window wide open on an October afternoon," said the niece, indicating a large French window that opened on to a lawn.

"It is quite warm for the time of the year," said Framton; "but has that window got anything to do with the tragedy?"

"Out through that window, three years ago to a day, her husband and her two young brothers went off for their day's shooting. They never came back. In crossing the moor to their favourite snipe-shooting ground they were all three engulfed in a treacherous piece of bog. It had been that dreadful wet summer, you know, and places that were safe in other years gave way suddenly without warming. Their bodies were never recovered. That was the dreadful part of it." Here the child's voice lost its self-possessed note and became falteringly human.

"Poor aunt always thinks that they will come back some day, they and the little brown spaniel that was lost with them, and walk in at that window just as they used to do. That is why the window is kept open every evening till it is quite dusk.Poor dear aunt, she has often told me how they went out, her husband with his white waterproof coat over his arm, and Ronnie, her youngest brother, singing 'Bettie,why do you bound?' as he always did to tease her, because she said it got on her nerves. Do you know, sometimes on still, quite evenings like this, I almost get a creepy feeling that they will all walk in through that window-----"







    

  

   

  

 


   


 






2020年10月12日月曜日

快男児・大伴古麻呂(5)

 淡々とした表記の「続日本紀」の行間を想像をふくらませて読んでいると、清河・真備グループと古麻呂とは、遣唐使の全期間を通じて対立していたと考えられる。

そもそも、出発前の遣唐使の正使・副使の任命時点から、政治的な匂いが強く感じられる。藤原氏の若手エリートではあるが、30歳過ぎの清河の大使任命はあまりにも若い。優秀で見栄えの良いハンサムな人であったらしいが。「続日本紀」には次のようにある。

「天平勝宝2年(750)9月24日 遣唐使を任命した。従四位下の藤原朝臣清河を大使に任じ、従五位下の大伴宿禰古麻呂を副使に任じた」

この頃、聖武太上天皇は健康がすぐれず、女帝・孝謙天皇の御代である。左大臣・正一位の橘諸兄が太政官の筆頭であるが、実際には孝謙天皇の側近の大納言・藤原仲麻呂が太政官を仕切っていた。のちの恵美押勝(えみのおしかつ)である。30歳を少し超えていた清河をむりやり大使に抜擢したのは、年上の従兄にあたる実力者・仲麻呂であったと考えられる。副使に古麻呂を押したのは、おそらく橘諸兄だったと思う。

この大使・副使の任命から1年以上も経って、天平勝宝3年(751)の記述に「11月7日、従四位上の吉備朝臣真備を遣唐使の副使に任命した」とある。

これはきわめて異例の人事だ。なぜこのような人事が発令されたのか、想像をめぐらせてみる。

①遣唐使は体力の要る役職であり、過去の例を見ると大使は40代、副使は30代・40代が多い。702年の粟田真人の50代後半は異例中の異例で、しかも真人はこの時、大使・高橋笠間の上席の「遣唐執節使」として入唐している。よって、この時すでに50半ばを超えていた真備の副使任命は、年齢的にも本人の高い位階の両方からして、異例である。

②当初の「大使・清河、副使・古麻呂」の辞令に関し、古麻呂はやる気満々だったと思う。もしかしたら、大使は俺のほうが適任だ、と思っていたかも知れない。かたや清河は、うるさ型の古麻呂を抑え切れるか、と悩んでいたのではあるまいか。

「お前は藤原氏の若手のホープだ。頑張れ」と、従兄の実力者の大納言・仲麻呂は励ましてくれるものの、年若い貴公子・清河は不安であった。仲麻呂に頼み込んで、急遽、真備を自分の補佐役として、無理やり副使に加えてもらったような気がしてならない。この慌てぶりを裏付けるような記述が「続日本紀」にある。4隻の船が出帆する直前である。

「天平勝宝4年(751)閏3月9日 遣唐使の副使以上を内裏に招集し、詔して節刀を与えた。よって大使で従四位上の藤原朝臣清河に正四位下を、副使で従五位上の大伴宿禰古麻呂に従四位上を授けた」とある。真備との位階のバランスをとるため、清河の位階を二階級上げ、古麻呂を四階級も特進させている。

このひと月後、4月9日の記述に、「東大寺の蘆舎那(るしゃな)大仏の像が完成して、開眼供養(かいがんくよう)した」とある。

③吉備真備と阿倍仲麻呂は717年の遣唐留学生として一緒に入唐した。真備は17年後に帰国するが、仲麻呂は在唐のまますでに35年になる。この友人を連れ帰る目的が真備にあったのではないか、と主張する研究者もいる。しかし、真備の学者タイプの冷徹な人柄を考えるに、友人を連れ帰るために危険を冒して自分からすすんで唐に行くという侠気は感じられない。清河が藤原一族の実力者・仲麻呂に真備の同行を頼み込んだと考えるのが、自然ではあるまいか。


事実、藤原清河の予感は的中した。清河と真備の二人が一致団結しても、朝賀の席順でも鑑真招聘でも、古麻呂の蛮勇に二人が押されっぱなしだったという事実が、それを物語っている。

大伴古麻呂は快男児であった。快男児ゆえに非業の死をとげた。古麻呂が刑死した時の大伴家持の悲しみと孤独感はいかほどであったか。これを思うと胸が痛む。






2020年10月5日月曜日

快男児・大伴古麻呂(4)

 さて、鑑真招聘についてである。

日本に向かう4隻の船は、広陵郡の黄̪泗浦(こうしほ)から出帆する。のちの寧波(ニンポー)である。66歳の鑑真ら24人は、この港から北西に徒歩だと数日の所にある揚州の寺から、揚子江経由でこの港に到着していた。

帰国の船に積み込まれた仏像や経典はぼう大な量であった。鑑真と従僧14人は大使・清河の第一船に、10人の同行僧は真備の第三船に乗った。これらの僧の中には中国人だけでなく、鑑真を慕う西域・インド・ベトナム人の僧もいた。前回の入唐留学僧の2人の日本人僧は古麻呂の第二船に乗船が決まった。

ところが、ここで事件が発生する。遣唐大使・藤原清河が突然、鑑真一行24人に下船を命じたのだ。おそらくこれは、副使・吉備真備の助言と思われる。古麻呂には何の相談もなかった。こんにちになってこれを考えれば、優等生学者の真備と藤原の貴公子・清河の、唐政府や広陵郡の地方政府に対する「過剰な忖度」であったような気がする。

鑑真招聘については不明な点が多い。井上靖の「天平の甍」はこのことを書いた作品である。小説ではあるが、歴史的背景を丁寧に調べており、出港直前の鑑真をめぐる清河・真備と古麻呂の対立は、おそらくこの小説のような光景であったと思われる。

鑑真以下24人は仏像・経典と一緒に、清河の船から降ろされてしまった。この動きを古麻呂に急報し助けを求めたのは、鑑真の弟子であり古麻呂の第二船に乗る予定の2人の日本人僧であった。

「なに。そんな馬鹿なことがあるか。それなら俺の船に乗せろ。清河や真備などの小心者の言うことなど放っておけ。責任は俺が持つ」快男児・大伴古麻呂はこう一諾した。すでに5回日本への渡航に失敗している鑑真は、古麻呂のこの決断で6度目にして日本への投稿に成功する。

古麻呂と鑑真が乗る第二船は、薩摩半島の南端に漂着する。そこから陸路で大宰府に向かった。これに遅れて真備の第三船は屋久島に漂着し、そこから海路で紀伊國に向かい、その後平城京に帰着している。一方、藤原清河と阿倍仲麻呂が乗る第一船は、ベトナムに漂着した。大部分の乗組員は亡くなり、清河・仲麻呂などの少数者は命からがら長安に戻った。

この二人が生存していることを大和朝廷が知ったのは、その5年後である。第四船の行方はまったくわからない。全員が死亡したと思われる。当時の遣唐使の航海は、「運がすべて」と言っても過言ではない。結果良ければすべて良しである。清河の第一船から降ろされ古麻呂の第二船に乗った鑑真には、運が残っていたのであろう。






2020年9月28日月曜日

快男児・大伴古麻呂(3)

 鑑真招聘を語りたいのだが、その前に、古麻呂とは何者か、大伴氏とは何者かについて少しだけ考えてみたい。

古麻呂の名は「続日本紀」にしばしば登場するが、大伴氏の家系図の中でどこに位置するか、研究者によりまちまちである。大伴家持との関係において、「家持の父旅人(たびと)は古麻呂の父(名は不明)の弟」という説(すなわち家持と古麻呂はいとこ同士)と、今一つは「旅人と古麻呂がいとこ」という説である。どちらかはっきりしないが、家持は子供のころから親戚である年上の古麻呂を慕っていたと思われる。


1300年後、「令和」の元号で男をあげた大伴旅人が、妻と息子の家持を連れて大宰帥(だざいのそち)として赴任するのは神亀5年(728)、本人が64歳の時である。息子の家持は10歳であった。翌年妻が亡くなり、その1年後、旅人自身が重病になる。

この時、古麻呂は親族の一人として旅人の遺言を聞くために、奈良から大宰府に急行している。古麻呂の官職は治部少丞(じぶしょうじょう)というから、中央官庁の課長クラスで年齢は30歳前後と想像する。平城京から古麻呂が持参した薬が功をなしたのであろうか。さいわいなことに、この時、旅人の病は快復する。12歳の少年家持の目には、頼りになる親戚の偉い人、と映ったに違いあるまい。

家持の祖父・安麻呂は、古麻呂の祖父・御行(みゆき)の弟という説もある。もしそうであれば、安麻呂も御行も大納言・右大臣の地位に昇っているから、両者とも位人臣を極めたことになる。よって、この当時の大伴一族の家長は兄の御行(古麻呂の父か祖父)であったと考えるのが自然である。

大伴氏の歴史はとても古い。

大和朝廷が成立する頃、すなわち3世紀ー4世紀からの武門の名門が、蘇我氏に滅ぼされた物部(もののべ)氏とこの大伴氏である。両氏とも武門の名族であるが、物部氏が攻撃集団としての日本陸軍の祖という性格であったのにくらべ、大伴氏は天皇最側近の近衛軍団の長(おさ)という印象が強い。




2020年9月19日土曜日

快男児・大伴古麻呂(2)

 「続日本紀」は言う。

正月三十日、遣唐副使・大伴宿禰古麻呂が唐国から帰国した。古麻呂は次のように奏上した。

大唐の天宝十二年正月一日に、唐の百官の人々と、朝貢の諸外国の使節は朝賀を行ないました。天子(玄宗皇帝)は蓬莱(ほうらい)宮の含元殿(がんげんでん)において朝賀をうけました。この日、唐の朝廷は古麻呂の席次を、西側にならぶ組の第二番の吐蕃(とばん・チベット)の下におき、新羅(しらぎ)の使いの席次を東側の組の第一番の大食国(たいしょくこく・ペルシャ)の上におきました。そこで古麻呂は次のように意見を述べました。

「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本国に朝貢しております。ところが今、新羅は東の組の第一の上座に列(つら)なり、我(日本)は逆にそれより下座におかれています。これは義にかなわないことです」と。

その時、唐の将軍・呉懐実(ごかいじつ)は、古麻呂がこの席次を肯定しない様子を見て、ただちに新羅の使いを導いて西の組の第二番の吐蕃の下座につけ、日本の使い(古麻呂)を東の組第一番の大食国の上座につけました。


この報告の中に、大使・藤原清河のことがひと言も触れられていないのは、とても不自然である。考えられる一つの理由は、この時点では大和朝廷も古麻呂も、清河・阿倍仲麻呂の乗る第一船は遭難し両名は死亡したと考えていた。二つ目の理由として、遣唐使の期間中、古麻呂と清河は一貫して対立しており犬猿の仲であった。

このように考えられるが、もしそうであったとしても、大納言・藤原仲麻呂が可愛がる従弟で、かつ孝謙天皇の親戚でもある行方不明の大使・藤原清河についてひと言も触れてないことに異常さを感じる。この時、古麻呂はもう少し藤原清河に対して配慮ある奏上をしておけばよかったのに、と大伴氏びいきの筆者は悔やんでいる。

この三年半後、古麻呂は非業の死をとげる。従弟の家持の無念さと孤独感はいかほどであったことか。陰謀を企てたということになっているが、はっきり言って、藤原仲麻呂にはめられて殺されたように思われる。


この奏上は古麻呂の得意の一節であろうが、その後の日本史を現在からながめてみると、もう一つの古麻呂が強行した「唐僧・鑑真招聘」のほうが、大きな意味を持つように思える。もっとも、この帰朝時点においては、その後の鑑真の日本仏教への貢献については誰もわかっていない。仏教に造詣の少なかった古麻呂が、鑑真の偉大さを理解してなかったとしても、それはやむを得ないことだったと思う。








2020年9月14日月曜日

快男児・大伴古麻呂(おおともの・こまろ)

 遣唐副使・大伴古麻呂は顔を真っ赤にして抗議している。

「なんだこれは。なめるんじゃないぞ!」

大唐の天宝12年(753)正月元旦の朝、場所はみやこ長安の蓬莱(ほうらい)宮である。しばらくしたら玄宗(げんそう)皇帝が姿をあらわし、諸外国の使節から朝賀を受ける。唐の百官はすでに式場で待機している。

「冗談じゃない。こんな馬鹿げた席順で座れるかよ。俺は絶対に座らん!」

すさまじい迫力で古麻呂は吼え続けている。唐の役人を相手に文句を言うのだから、一応中国語で話しているのだが、おそろしく下手だ。 遣唐大使・藤原清河(きよかわ)も副使・吉備真備もおろおろするばかりだ。

じつは、この二人にとって古麻呂の反論はありがたい。この席順で座ったとなると、帰国後、国粋派の連中から国威を汚したと攻撃されるのは明らかである。日本の右翼・国粋派の筆頭である大伴家の実力者が、ここでこう主張してくれるのは二人にとっては好都合である。

そうではあるが、古麻呂のこの蛮勇はいかがなものか。もう少しまともな中国語がしゃべれないのか。17年間の入唐留学で中国語に堪能なエリート官僚の真備は、複雑な気持ちでこれをながめている。そのくせ、自分が騒ぎに加わりこれを解決しようとはしない。やはり、エリートの学者気質はぬぐえない。

そう。古麻呂は充分な中国語がしゃべれないのである。57歳の真備も43歳の古麻呂も、入唐留学経験者というふれこみだが、中身はまったく違う。真備は22歳で阿倍仲麻呂などと共に入唐し、長安で17年間勉強した本物の留学生だ。学問・礼儀作法・中国語ともに教養ある中国人と変わらない。

かたや古麻呂のほうは、30歳前で長安の地を踏むものの、1年間ほど長安の町をウロウロと見聞し、連日大酒を飲んで帰国したにすぎない。いってみれば遊学組である。学問をしてないどころか、唐式の礼儀作法など頭から無視している。

片言の中国語なのだが、不思議なことに通じている。真っ赤な顔で怒鳴り散らすのだから、相手にも怒っているのはわかる。儀典長は弱り切っている。元旦の朝、玄宗皇帝が外国の使節から朝賀を受けるのは、めでたい恒例の儀式だ。その直前に、席順が気にくわないと日本の使節が席に座らないとなると、儀典長の大失態になる。

その時である。呉懐実(ご・かいじつ)という名の唐の将軍が、古麻呂の存在に気付く。「なんだ。お前かよ!」 そう言われた古麻呂は、呉に同じ言葉を投げ返す。十数年前、長安の街をウロウロしていた時の、仲の良かった飲み友達である。義兄弟のちぎりを結んだその男が、今は将軍になっている。

呉将軍は、自分より格下の儀典長に耳打ちする。「この男、言い出したら絶対あとに引かん。ここは俺にまかせろ。俺が新羅に話をつけるから。ええな!」儀典長にすれば、願ったりかなったりである。こういう次第で、朝賀の席順の問題は解決した。

つねに淡々と味気のない表記の「続日本紀」なのだが、これを記録した天平勝宝6年(754)1月30日の箇所は、古麻呂の得意顔と記録官の気の昂(たか)ぶりがわずかに感じられる。









2020年9月7日月曜日

父の武勲(3)

 次の話も父から聞いた。勇ましい話ではないが、なぜか記憶に残っている。二つとも戦争に負けた後の話である。

8月15日に玉音放送が流れたあとも、厚木などいくつかの航空隊で徹底抗戦の声が上がり、数日間あちこちの航空隊で混乱があった。それらに比べ、佐伯航空隊の司令は偉物(えらぶつ)であったようだ。8月16日の朝、司令から次のような訓示があったという。

「戦(いくさ)が終わったので皆は順次復員することになる。ただ、一度も飛行機に乗ったことのない整備員が多数いる。同じ海軍航空隊にいたのに、一度も飛行機に乗らないで故郷に帰すのは可哀想だ。国に帰ってからも肩身が狭かろう。整備員全員を飛行機に乗せてやりたい」

このようなわけで、三座の飛行機に操縦員一人が乗り、本来は偵察員と通信員が乗る空いた座席に二人ずつ整備員を乗せ、30分程度の遊覧飛行を16日と17日の両日行った。そのあと、身に着けたライフジャケットのまま飛行機乗りの格好で、呼んでいた写真屋に写真撮影をさせた。「故郷に帰ってからの土産話ができた」と整備の人たちは大喜びしたという。


終戦の3日後、8月18日にも奇妙な指示があった。司令や飛行長などお偉いさんのそばに、佐伯の漁業組合長さん以下の幹部が立ち並んでいる。司令はこう話された。

「大東亜戦争がはじまった時、ここ佐伯湾には山本長官が座上される聯合艦隊の旗艦・長門がいた。以来、この港は海軍が使ってきた。佐伯湾の中での漁は一切禁じたので、漁業組合には不自由をかけた。4年近く漁をしてないので、この湾にはたくさんの魚がいるそうだ。これから組合長さんに話をしてもらう。海軍としてはこれに協力したい」

この時、佐伯には零式三座水偵が12機あった。2機を選び、潜水艦攻撃に使う爆雷を積んで上空で待機してほしい、と組合長は言う。伝馬船に乗った漁師が、魚がたくさんいそうな場所で大きな白旗を振る。伝馬船は急いでそこから離れる。この場所に爆雷を投下してほしいと組合長は続ける。

たまたまその1機に父が選ばれたらしい。爆雷を投下すると、おびただしい量の魚が浮かび上がってくる。それを10隻以上の伝馬船で漁師たちが回収してゆく。何度も爆雷を落とした。中には水圧で腹の裂けた魚もいたが、採ったばかりなので問題なく食べられる。

「海軍さん、ありがとうございます」

その日の午後、形の良い鯛や黒鯛、ヒラメ、ブリなど大量の魚が、漁業組合から佐伯航空隊に届けられた。

「搭乗員は戦犯として一番に捕まる恐れがある」とのことで、父は8月20日過ぎには早々と広島県の実家に復員を命じられたという。


佐伯航空隊の最後の司令は野村勝という人で、海兵52期で高松宮・源田実と同期である。普通は航空隊の司令には大佐が任ぜられるのだが、この人は海軍中佐であった。よほど嘱望された優れた人物だったのであろう。








2020年8月31日月曜日

父の武勲(2)

 それから十数年経って、まったくの偶然で、父の乗る零式三座水偵の戦闘記録が戦艦大和の「戦闘詳報」の中に記録されているのを発見して驚いた。令和2年(2020)の1月のことだ。

三光汽船時代の友人F君が奈良県に住んでいて、彼から連絡をもらった。市ヶ谷で防衛省見学ツアーというのがあり、極東軍事裁判が行われた旧陸軍士官学校跡を含め、戦史跡を見学するツアーに一緒に行かないかとの誘いである。

もう一人の友人で神奈川県に住むU君にも声をかけ、三人で一緒に見学した。陸上自衛隊の准尉さんが丁寧に説明してくださり、とても有意義な見学ツアーだった。

終わりごろ、資料館のような場所に案内された。西南戦争、日清・日露戦争、太平洋戦争時の重要文書が展示されている。日本海海戦の、「敵艦隊見ユトノ警報二接シ、、、」の東郷司令長官から軍令部総長宛の電報や、太平洋戦争の沖縄戦での、「沖縄県民カク戦ヘリ、、、」の大田少将から海軍次官宛の電報もここに展示されている。

これらの中に、「軍艦大和戦闘詳報」という報告書を見つけた。この中に佐伯空水偵が打電した電報内容が記録されていて驚いた。

少し説明が要る。

承知の通り、戦艦大和は昭和20年4月7日、14時23分ごろ鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。乗組員3332名のうち、生還者は276名にすぎない。当然、航海日誌を含めすべての書類は大和と共に水没した。生存者は駆逐艦で佐世保に運ばれた後、しばらくの間どこかの小島に幽閉された。大和沈没の事実が国民に知られるのを防ぐためである。

「戦闘記録を書く」という行為が生還者から自発的に出たのか、連合艦隊司令部の指示によるものかは知らない。生き残った将校何名かが、記憶を頼りにこれを作成したと思われる。生存者の最先任は副長の能村次郎大佐だが、彼は負傷していた。次が副砲長の清水芳人少佐で、この人が中心になってこの書類を作成したらしい。

写真に見えるように、「軍機密・軍艦大和戦闘詳報」は、4月20日に作成されたとある。その下に、5月9日提出と手書きされ、能村大佐の認印が押してある。大和沈没のひと月後に提出されたようだ。

「戦闘経過」として次のようにある。

「5日1500、GF(聯合艦隊)電令作第607号受領」

「6日1520、大和・矢矧・冬月・凉月・磯風・浜風・雪風・朝霜・初霜・霞、徳山沖出撃」とある。このすぐ後に、零式三座水偵のことが記されている。

「1710、細島ノ115度10浬二於テ佐伯空水偵敵潜ラシキモノヲ探知攻撃ス」

この電報内容の元は、父の乗る零式三座水偵機長の八幡兵曹長から、鉛筆でのメモ書きを受け取った最後尾座席の通信兵が、佐伯航空隊に打電したものである。

父の機は、呉鎮守府配下の佐伯海軍航空隊に打電するのが任務であり、聯合艦隊所属の大和に打電する立場ではない。そもそも父たちは、大和が沖縄に向けて出撃することは何も知らない。海軍・軍令部を頂点として、聯合艦隊と各鎮守府は別々の命令系統になる。もし正式ルートでこの内容が大和に伝わったとすると、次のような流れになる。

零式三座水偵→佐伯航空隊→呉鎮守府→霞が関の軍令部→慶大日吉の聯合艦隊司令部→戦艦大和。ただ現実は、このような面倒なルートではなかったと思う。この水偵が佐伯航空隊に打電したものを、瀬戸内海を南下中の大和の通信室が、「傍受」したと考えるのが現実的である。大和には高性能の受信機があり、同時に最優秀の通信兵がいた。

それから40分後、父たちは上空から豊後水道を南下する大和艦隊を見る。ということは、大和の艦橋からも上空を飛ぶ一機の下駄ばき(フロート付)の零水の姿が見えたはずだ。

この日、聯合艦隊司令部は九州全域の航空隊に対して、「大和護衛を禁止する」との命令を出していた。護衛の戦闘機を付けても敵機に撃ち落される。それよりも特攻機として温存しておくほうが戦術的に価値があるとの判断であった。この日、南下する大和艦隊には上空を護衛する航空機は一機もなかった。

制海・制空権の乏しい海域を航海する軍艦や輸送船団にとって、上空を飛ぶ友軍機の姿ほど頼もしいものはない。幾多の戦記に、艦船上から友軍機を見た時の感激が書かれている。

「おっ、こいつだな。さっき細島沖で敵潜を攻撃したのは!」

上空を健気(けなげ)に飛ぶ、一機の零式三座水偵を見上げながら、大和艦橋の幹部たちの口元に、わずかに笑みが浮かんだのではなかろうか。さほど重要とも思われないこの電報内容を、わざわざ戦闘経過に記録していることは、大和乗組の幹部たちは、これがよほど嬉しかったのではあるまいか。

敵潜水艦を沈めることは出来なかったが、死地に向かって南下する大和艦隊の将兵に対して、敵潜に一矢を放ったこの零式三座水偵は、自分達は意識してなかったものの、わずかながら「心のはなむけ」をおくったのではあるまいか。

大和の戦闘記録に、自分の零式三座水偵のことが記録されていたことを知ったら、父はずいぶん喜んだと思う。ただ残念なことに、父は10年前に86歳で亡くなったのでこのことを伝えることはできない。今度田舎に帰ったら、仏前にこの写真を供えてあげるつもりだ。





















2020年8月25日火曜日

父の武勲

このような題名にしたのだが、じつは私の父には華々しい武勲はない。

実施部隊の佐伯海軍航空隊に配属されたのが昭和19年の末だから、すでに負け戦(いくさ)の頃である。 子供の頃聞いたのは、米機グラマンに追われて逃げたとか、整備不良の飛行機で落水して一機を海に沈めてしまったとか、なさけない話が多かった。

ただ、一つだけ、「もしかしたらアメリカの潜水艦を沈めたかも知れない。あれが沈んでいたら殊勲甲・金鵄勲章だな」と自慢げに言うのを2、3度聞いたことがある。それから何十年も経って、父が80歳の頃、「あの潜水艦が沈んだかどうか調べてくれ」 という。 私が戦記物の本を多く読んでいるのを知ったからであろう。

戦後50年以上経っていて、アメリカ軍の機密資料の多くが公開されていた。「4月6日、大和沖縄に出撃」という題で以前ブログに書いたが、これは父から聞いた話である。

アメリカの潜水艦を攻撃したのは、上空から大和艦隊を見る40分ほど前らしい。よって、昭和20年4月6日の17時ごろの出来事である。当時、佐伯空の零式三座水偵の半数の6機が、早朝から1時間おきに出撃して、アメリカ潜水艦の索敵攻撃を行っていた。60キロ爆弾4個もしくは同量の爆雷を積んで単機で飛び立つ。

この時の弁当は、いつも巻き寿司(太巻き)だった。片手で食べられるからだ。当時としては大変なご馳走で、「搭乗員はいいなぁ!」と整備の人たちはうらやましがったらしい。

大分県の佐伯湾から南下し、宮崎県の日向灘から鹿児島県の佐多岬沖までが作戦海域であり、九州最南端の開聞岳を目印に飛行する。 敵潜水艦を肉眼もしくは電波探知機(レーダー)で見つけ出し、これを攻撃するのが任務である。往復で5-6時間の飛行だった。

この日、父が操縦する機は、最終の6番目に出撃した。直線コースの飛行ではなく、広い海面を見るためジグザグに飛行する。予定の佐多岬沖の大隅海峡まで飛行したが、敵潜水艦は発見できなかった。

帰投しようとするその時、偵察員の八幡兵曹長が南方上空にグラマン戦闘機を発見し、あわててUターンして帰路についた。幸い敵機は気がつかなかった。すでにこの頃、米軍の空母艦載機は本土周辺を大きな顔で飛行していた。

零式三座水偵の機長は偵察員の場合が多く、父の機もラバウル帰りの八幡兵層長が機長だった。熟練の偵察員で、この人とペアを組んでいたから生き残れたと、父はこの人を大変尊敬していた。

1時間半ほど飛行し、宮崎県北部の細島沖にさしかかった時、「敵潜水艦発見!」と八幡兵曹長が大声で叫んだ。機長の指示する方角に父は機首を向けた。現場に着いた時、父の目には敵潜の姿は見えず、八幡兵曹長の指示する海面にすべての爆雷を投下した。

基地に帰って聞くと、八幡兵曹長は海面に浮上している敵潜を見たという。こちらが発見すると同時に、敵潜は急速潜航して海中に没した。当時、マリアナ群島から北九州を爆撃するB29が、日本の戦闘機や高射砲の被弾で傷つき、この辺りで力尽きて落水するケースがかなりあった。アメリカ潜水艦の主任務は、日本の艦船攻撃ではなく、B29搭乗員の救助であったらしい。

敵潜水艦攻撃をおこなったあと、その飛行機が本来やるべきことは、上空を旋回しながら戦果を確認することである。沈没していれば水面に油が浮く。これを確認できれば、「敵潜水艦1隻撃沈」とおおいばりで基地に打電する。

ところが父の機はこれを行なわず、「敵潜攻撃ス」と基地に打電して、すぐに帰路についた。「燃料が残ってなかったんだ」と父は言ったが、あるいは1時間半前に見たグラマンの遠影に、父を含む3人の搭乗員はおびえていたのかも知れない。

この潜水艦が沈没したか調べてみたのだが、この海域だけでなく、4月6日に日本列島周辺で沈んだアメリカの潜水艦は1隻もないことが判明した。これを父に伝えた。

「そうか。あいつらは生きて国に帰ったんだな」と笑った。武勲がなかったことの悔しさより、100人前後の乗組員が生きて親兄弟のいるアメリカに帰ったのを喜んでいるように思えた。

 

 

 

 

 

 


2020年8月13日木曜日

東陵の瓜(あとがき)

後世のひとびとは、この東陵瓜の話をよほど好んだらしい。何人もの横綱級の詩人がこの瓜のことを書き残している。

魏(ぎ)の阮籍(げんせき・竹林七賢の筆頭・210-263)、東晋の陶淵明(とうえんめい・365-427)、唐の李白(701-762)などである。

ここに三人の詩の一部を書き写し、筆を擱(お)きたいと思う。


昔聞く、東陵の瓜

近く青門の外(そと)に在り

畛(あぜ)に連(つら)なり、阡佰(せんぱく)に到(いた)り

子母(しぼ)、相鉤帯(あいこうたい)す

五色、朝日(ちょうじつ)に耀(かがや)き

嘉賓(かひん)、四面より会(かい)せりと

ー阮籍ー

昔こんな話を聞いたことがある。東陵侯が瓜をつくった場所は、長安の都の青門の近くだった。あぜ道からずうっと東西・南北の道まで、大きな瓜、小さな瓜がつながり合っていた。その瓜は、朝日をうけて五色に輝き、立派な客が四方から集まってきたという。


衰栄(すいえい)は定在(ていざい)すること無く

彼(か)れと此(こ)れと更(こもごも)之(これ)を共にす

召生瓜田(しょうせいかでん)の中(うち)

寧(な)んぞ東陵(とうりょう)の時に似(に)んや

寒暑(かんしゃ)に代謝(だいしゃ)有り

人道(じんどう)も毎(つね)に此(かく)の如(ごと)し

達人は其(そ)の会(かい)を解(かい)し

逝将(ゆくゆくまさ)に復(ま)た疑わざらんとす

ー陶淵明ー

人の栄枯盛衰は定まった所にあるわけではなく、両者は互いに結びついている。秦代の召平を見るがよい。畑の中で瓜作りに励んでいるいる姿は、かつて東陵侯たりし時の姿と似ても似つかない。自然界に寒暑の交替があるように、人の道も同じこと。達人ともなればその道理を会得しているから、めぐり来た機会を疑うような真似はしない。その時その時を楽しむのである。


青門に瓜(か)を種(う)うるの人は

昔日(せきじつ)の東陵侯

富貴故(もと)より此(かく)の如(ごと)くならば

営営(えいえい)何(なん)の求むる所ぞ

ー李白ー

秦の東陵侯の召平という人が、漢の世になって、長安の東の青門という所で瓜をつくって生活していた。これが昔日の東陵侯であろうとは、誰も思うまい。富貴というものはもとよりこのようなものである。ゆえに、忙しげにこれを求めようとするのは愚の骨頂である。

















  

2020年8月11日火曜日

東陵の瓜(20・完)

翌朝未明、 「陳豨討伐成功!」 の報は長安城に届いた。

その後の計画はすべて順調にすすむ。参内した韓信を呂后は武装兵に命じて捕縛し、すぐさまその首を刎ねた。蕭何はその現場には立ち会わなかった。

ただちに早馬が邯鄲に送られ、劉邦に報告される。劉邦は韓信が誅殺(ちゅうさつ)されたと聞くと、使者を送ってきて、丞相(宰相)の蕭何を相国(しょうごく・同じく宰相であるが丞相より高位)に任命する。それに加えて、五千戸を増封し、兵卒五百人と一都尉(将校)を蕭何の護衛につけた。

諸侯や将軍たちは皆、めでたいことだと蕭何の自宅に祝辞を述べに来た。
ただ一人、召平は蕭何に忠告する。「これは危険ですぞ」と。

「これから禍(わざわい)が始まる恐れがあります。劉邦どのは外で戦(いくさ)をされており、蕭何どのは矢の届かない場所で内を守っておられる。領地を増加し護衛の兵を置くのは、あなたを寵愛しているからではありません。韓信が謀反したので、あなたの心をも疑っているのです。増封を辞退して受けないでください。そして、私財をすべて投げ出して国家の軍事を補助なされてください。そうすれば劉邦どのはお喜びになり、蕭何どのの身も安全です」

蕭何はすべて召平の言う通りに従った。召平が予想した通り、劉邦はこれをおおいに喜んだ。



この事件が片付いてからも、今までと同じように、蕭何は召平のあばら屋を訪ねてきた。その蕭何が病気で亡くなったのは、韓信の死から五年後である。そののち、季布を助けた夏候嬰が死に、季布も亡くなる。季布が亡くなったとき、召平は七五歳で元気で瓜をつくっていた。八十代に入ってからも、召平と葉浩は瓜作りを続け、夜は村人たちと一緒に酒を飲んだ。


そして何年かのち、召平は煙のごとく忽然(こつぜん)とこの世を去る。九十八とも九十九ともいわれている。死の5日前まで、瓜畑の手入れをしていたという。死の前日、床で横になっていた召平は、目は閉じていたが顔に笑みを浮かべて、ひと声つぶやいた。

「爺さまの言われたことは、やはり本当だったなあ」

そばにいた数名の者は、その言葉をはっきりと聞いた。だが、それが何を意味するのかは誰にもわからなかった。














東陵の瓜(19)

「蕭何どの」、召平は笑いながら言う。

「今夜打つべき手はすべて打ちました。他にやることはありません。久しぶりに一献やりませんか? 珍しい肴があるんです」

そういって台所に向かう。瓶(かめ)の中を掻き混ぜているらしい。しばらくしたら、水で洗い包丁で切る音が聞こえる。右手に酒瓶を持ち、左手にその肴を持って蕭何の前に置く。

「一体なんですか、これは?」蕭何は珍しそうにその肴をながめている。白瓜の漬物のようだが、いつもの塩漬や酢漬とは違う。見たことのない不気味な褐色の漬物である。

「旨いのですか?」

「いや。わかりません。幼なじみの李照にもらって食べたのは旨かったですが、自分でつくったのを食べるのは今日がはじめてなのです」。召平は正直に答える。

李照の友人に酒蔵の主人がいる。大量の酒糟(さけかす)を李照にくれた。このあたりの酒は麦でつくる。よってこの酒糟は麦でできたものだ。そのままあぶって食べても旨いし、汁にしても良い。しかし、量が多かったので、ためしに塩漬けにしてある白瓜をこの酒糟で漬けなおしてみた。旨いので召平に少し届けてくれたのである。

「李照の真似をしてみたのです。何回か新しい酒糟に漬けなおしたほうが味が良い、というので三度漬けなおしました」

先に召平が口に入れ、それを見て蕭何は、恐る恐る一片を口に運ぶ。

「旨いものですなあ!」蕭何は感嘆のうなり声をあげる。酒を飲み、この瓜の漬物を食いながら、植えて間もない今年の瓜の成長ぐあいを召平は話す。明日の朝一番で、蕭何には大仕事がある。一刻ほどで、二人のささやかな酒盛りはお開きとする。

帰る段になって、蕭何は何か言いたげにもじもじしている。そして、「それを少々分けてくださらんか」と小声で遠慮げに言う。よほど気に入ったらしい。

「これをつくるにはけっこう手間がかかるのです。つくり方は、長安でも李照と私以外は知りませんからなあ。値段は高いですぞ」。召平は得意顔で言った。

召平が竹の皮に包んでくれた四切れの褐色の漬物を、蕭何は下僕にも渡さず、自分の手にしっかり握りしめて大事そうに持ち帰った。

これは一体どのような漬物だったのか。米糟と麦糟との違いはあるが、後世の日本で発明されたといわれる奈良漬のご先祖様のような味ではなかったか、と筆者は想像している。






2020年8月3日月曜日

東陵の瓜(18)

ことは急を要す。

大将軍としての韓信の実力と名声は群をぬいている。今ここで韓信が反乱をおこせば、長安に残る他の将軍たちでは官軍の敗北は明らかである。季布がいれば、韓信に対抗できるだろうが、季布のいる河東郡までは早馬で片道3日を要す。

こうなれば、何かの理由をつくり、韓信を単身で長安城の中におびき寄せ、一気に誅殺する以外に方法はない。韓信を宮中に呼び寄せるにはどうすれば良いか?召平は瞑目したまま考える。

「そうだ!」

と召平はつぶやいた。劉邦からの偽りの伝令をつくり、明朝まだ夜が明けるまえ、長安城の正門前に到着させる。

「陳豨が討伐された!」と伝令に大声で叫ばせて、その噂(うわさ)を一気にみやこ中に触れまわす。そして、宰相・蕭何の名で韓信のもとに使いを送り、誠意のこもった忠告をする。
「病身であることは知っている。しかし、貴殿にもかけられている疑いを晴らすためにも、遠征成功の祝辞を皇后・呂后(りょこう)に述べに、急ぎ参内したほうが良い」と。

慎重で用心深い韓信のことだ。ほかの誰が言っても出てこないだろう。しかし、蕭何の言うことなら信用して出てくるに違いない。

かつて、韓信は項羽から劉邦の陣営に寝返った。下級将校から這い上がり大将軍にまで昇りつめた。その間に、同僚の嫉妬により何度も殺されそうになる。それをかばって、そのつど韓信の命を助けたのが蕭何である。

またその後、韓信は劉邦が自分を重要な地位に登用しないことを憤り、劉邦の陣営から逃亡したことがある。この時も、蕭何は自分の命の危険をかえりみず逃亡した韓信を連れ戻した。死刑になるところだった韓信を、「国士無双」 と称えて劉邦に命乞いをしてやり、なおかつ、大将軍に推挙したのもほかならぬ蕭何である。

その蕭何に、一世一代の嘘をついてもらう。これ以外に漢帝国の危機を救う道はない。ここで漢帝国が滅びたら、天下はふたたび大混乱におちいる。秦のような法家主義の国がふたたび生まれて、人々が塗炭の苦しみにのたうちまわる恐れがある。韓信という男にはその匂いが感じられる。
六千万人の人々の幸せのためだ。今こそ、至誠の人蕭何どのに、誠心誠意の嘘をついていただく以外に他に方策はない。召平はそう結論し、静かに目を開く。

「蕭何どの」、と爽やかな表情で声をかける。そして、この考えを淡々と語る。

蕭何も稀代の名宰相である。瞬時にこれを理解する。自分が悪役を演じることについても不満げな顔をしない。もしかしたら蕭何自身が、同じ筋書きをすでに描いていたのかもしれない。

「いや、お恥ずかしい。少しうろたえておりました。仰せのお考えにまったく同意します」
そう答え、下僕に命じて外で待機している将校を呼び寄せる。そして、右の一部分だけを伝える。
すなわち、邯鄲にいる高祖・劉邦からの伝令になりすまし、明日の未明、長安城の正門を叩き、「陳豨討伐成功 !」の報を大声で知らせよ、と。

召平は、若い将校に真新しい軍服を脱ぐように勧め、自分が野良仕事で着ている普段着を渡す。その後一人で台所に向かう。かまどに付いている煤(すす)を少量皿に乗せ、それを将校の首筋や顔に塗らせる。

蕭何は優しい言葉で将校に命じる。

「ご苦労だが、今すぐ出発して邯鄲のある東北東の方角に馬を走らせてくれ。適当な時刻になったら逆戻りして、明朝未明、疲れ切った姿で長安城の正門を叩いてくれ」

若い将校はすぐさま馬に飛び乗り、その方角に向かって走り去った。












東陵の瓜(17)

以来、蕭何はひんぱんに召平の荒屋(あばらや)を訪ねてくる。はじめの頃は季布と一緒であったが、一年ほどたって、季布が河東郡(こうとうぐん)の郡守に赴任してからは、下僕だけを連れて一人でやってくる。

瓜の季節が終わり、冬になっても春になってもやってくる。「瓜を買いに来る」という名目なので、冬場には白瓜の塩漬や甘酢漬を土産として持ち帰る。

いつ頃からか、蕭何は身の回りの相談ごとをするようになる。そのうち、政治向きのことも話しだす。蕭何自身、智謀の宰相であるが、思い悩むことも多いのであろう。召平に自分の考えを聞いてもらい、それを再確認したいと思っている様子である。召平は口の堅い知恵ある男だ。直接の利害関係がないのも良い。

それはそれとして、じつは蕭何が召平を訪問する一番の理由はほかにあった。蕭何にとって召平という男と話をすること、それ自体がなによりも楽しかったのだ。召平の持つ老荘的な匂いが好きだったようである。

この蕭何という人は、若いころから老荘を好んだという。戦国時代の末期の混乱の世に少年時代をおくり、その後秦を倒すことに陰謀のかぎりを尽くし、そして漢の大宰相になった男が老荘の徒であったとは。信じがたい思いがする。

この後も中国史は続く。 蕭何のあとの張良・蜀漢の諸葛亮孔明・宋の趙普(ちょうふ)・司馬光、
そして近くは中華人民共和国の周恩来。 中国史はおびただしい数の名宰相を生み出した。
これらの中で史上最高の宰相はだれか?ということになると、現在でもこの蕭何を一番に推す人がもっとも多いらしい。


それから一年ほどして、漢帝国の屋台骨をゆるがしかねない大事件が勃発する。前196年の5月のある日の夜半遅く、なんの前触れもなく蕭何が召平の荒屋を訪ねてくる。訪問の時刻、その顔つきからして、ただごとではないことはすぐに判る。下僕のほかに、一人の信頼できる将校を外で待たせているという。

蕭何は言う。

「長安にいる准陰侯(じゅんいんこう)・韓信が謀反を企らんでいる。数日以内に決行するのはまちがいない。陳豨(ちんき)と通じているふしがある。いかに対処すべきかお知恵を借りたい」

二ヶ月前、劉邦がもっとも信頼していた将軍の陳豨が鉅鹿(きょろく)の地で反乱をおこした。激怒した劉邦は、鎮圧のためみずから将として出陣し、現在は鉅鹿近くの邯鄲(かんたん)にいる。長安から東北東に馬で10日の場所である。

陳豨平定はまだ終わっていない。本来なら、大将軍の韓信がこの征伐軍の総司令官になるのが順当な人事である。ところが韓信は、病気を理由にこれを断った。陳豨は日ごろから韓信を師と仰いでいる。この二人は、いわば直系の親分子分の関係なのだ。なにかの密約ができていることは疑う余地がない。

劉邦と蕭何は、一面では韓信の辞退に胸をなでおろした。二人が連合して長安の都に攻め上るという、最悪の辞退は避けられたからである。このような背景のなかで、劉邦みずから兵を率いて遠征するという、異例の措置がとられたのだ。

召平は目を閉じた。そして考える。







2020年7月27日月曜日

東陵の瓜(16)

二年目の瓜の収穫が始まってまもなくの夕刻、突然の来客がある。

「平服を着ていますが、それなりの身分とおぼしき男が門前に車で来ています。供を二人連れて、瓜を買いたいと申しております」と、作男が取りつぐ。

召平が薄暗い玄関まで出ていくと、その男は、「東陵侯どの!」と呼ばわる。暗くて誰か判然としない。ためらいをみて、その客は、「季布でござる」と大声で名乗った。何年ぶりになるだろう。会稽郡の項梁の館以来である。

「旨い瓜があるとのうわさを聞いたので買いにまいりました!」、と季布は大声で言う。
情報通の季布はすでに昨年の暮、召平が長安郊外の実家にもどり、瓜をつくっていることを知っていた。ただ、冬場に瓜を買いに行くのは不自然と思い、二年目の瓜の収穫期を心待ちにしていたという。

召平の自慢の瓜を、旨い旨いと食いながら、広陵や会稽での思い出話に花が咲く。政治向きの話はしない。ただ一言、「劉邦という人は器量の大きいお方ですなあ」と言った。土産に持ち帰る瓜の代価だといって、市価の二倍ほどの金(かね)を出す。召平は黙ってそれを受け取る。

帰り際に季布が問う。「また時おり瓜を買いに伺います。瓜の大好きな方がもう一人おられる。今度お連れしてもよろしいでしょうか?」

「わしの瓜を買ってくださる方なら誰でも大歓迎です。わしの生活の糧は今は瓜だけですからな」


季布があたらしい瓜のお客を伴って訪ねてきたのは、それからわずか三日後だった。その客人も平服を着て下僕を二人連れている。召平がはじめて見る顔だ。

「蕭何(しょうか)どのです」

前置きもなく、肩書も付けず、季布はいきなりそう言う。

(この男が漢の高祖・劉邦の三傑の筆頭として今をときめく宰相の蕭何か!)
英雄豪傑という風情ではない。ごく普通の人、といった感じの男だ。召平は軽く頭を下げる。

「こちらが東陵侯・召平どのです」

季布がこう紹介したのには驚いた。そうであろう。漢の宰相に対して、秦の爵位を付けて紹介するなど普通ではない。蕭何はいっこうに気にする風もなく、微笑をたたえたまま、優しいまなざしで季布をながめている。蕭何が季布を信頼し、その気質を好んでいるのが見てとれる。召平は、この蕭何という人物に強い好感を抱く。

後世の漢の史書は、季布の死後まで楚人が語り継いだ言葉として、「黄金百斤(ひゃっきん)を得るとも季布の一諾(いちだく)を得るに如(し)かず」と刻んだ。また、初唐の宰相・魏微(ぎちょう)は、唐詩選の巻頭の詩に、「季布に二諾無く、侯嬴(こうえい)は一言を重んず」と、敬意をこめてその名を書き残した。

その季布である。言ったことは変えない。召平も蕭何も、笑って聞くよりほかなかった。この季布の紹介の仕方は、軍人・政治家としてのそれではない。彼の侠客としての美学であったかと思う。

召平は「蕭何どの」と呼び、蕭何は「召平どの」と呼ぶ。普通の対等な関係とのお互いの認識である。政治向きの話はしない。瓜つくりの話に終始する。蕭何は、旨い旨いと美味を礼賛しながら召平のつくった瓜を食い、土産として大量の瓜を下僕に持たせる。

代金として市価の十倍もの金を渡そうとするが、召平はそれを制し、市価の二倍を受け取る。たかが瓜の代金である。十倍としてもたいした金額ではない。しかし、いわれなき金を受け取るわけにはいかない。この甘さこの旨さであれば市価の二倍は当然、との自負が召平にはある。

以来、何十年にもわたり、召平のつくる瓜の値段は市価の二倍、というのが長安の市場での通り相場となる。

「また時おり、瓜を買いに伺いたいと思います」

「そうぞ。どうぞ。大切な瓜のお客様が一人増えて嬉しいですよ」


















東陵の瓜(15)

翌日から、浩や弟二人そして何人かの作男を連れて畑に出る。

「まあ、まあ。ゆっくりしたらええのに。せっかちは子供の時とちっとも変わらんなあ」、母親は嬉しそうに軽口をたたく。畑を見廻りながら、春の農作業の段取りを考える。農に関しては素人ではない。

同じ場所に同種類の野菜を続けて植えると出来が悪い。連作障害である。前年、そのまた前年、ここに何を植えていたのか。一つ一つを聞いて頭に入れる。大事なことは木簡に記す。
「研究熱心なことじゃなあ」、李照が顔をだして召平を冷やかす。
一ヶ月はすぐに経った。父親に申し出る。

「五反(1500坪)ほどを勝手に使わせてほしい。残りは今まで通り親父が作男に指示なされたら良いから」。「おう、おう。好きにやったらええ」、と父親は笑う。

(素人が五反に何を植える気かな。そのうち雑草に手を焼いて途中で投げ出すじゃろう。平は子供のじぶんは畑仕事を嫌がって逃げ回っていたのに。どうした風の吹きまわしじゃ?)

だれもが召平に20年の畑仕事の経験があることを知らない。浩には、広陵や汨羅での農作業のことは絶対に言うなよ、と強く言い聞かせてある。「突然立派な瓜をつくって、みんなを驚かせてやるんじゃ」。「はっはっはっ。そいつは愉快ですね」

「瓜で勝負する」

召平はそう決心する。子供の頃、今は亡き祖父が何かのおりに、「このあたりの気候と土壌は瓜に最適なんじゃ」と漏らした言葉も頭の片隅に残っている。

後世、「東陵の瓜」と呼ばれ名声を博す、召平の美味な瓜は、広陵と汨羅での20年の経験と、このような周到な準備と研究のもとにつくられたのである。作男にはたのまず、浩・李照・二人の弟を連れて、長安の市場に瓜の種を買いに行く。3世紀の古文書が、「東陵瓜は五色に輝いていた」と書き残しているが、これは事実である。長安の町中で買い求めた瓜の種は、はじめから数種類あったのだ。

召平がつくった瓜を大きく分けると、甘みがあり果物として食べるまくわ瓜(真桑瓜)と、野菜として食べる白瓜の二種類である。前者の仲間として何種類にものメロンがある。西域から入った甘みの強いハミ瓜もつくる。後世のマスクメロンの原種のような瓜もつくっていた。すでにこの頃から長安は、シルクロードの出発点として西域との交流があったのだ。

胡瓜(きうり)と西瓜(すいか)はつくっていない。胡瓜は召平より80年ほど後に生まれる張騫(ちょうけん)という人が西域から種を持ち帰る。西瓜が中国に入るのは、はるか後世、11世紀になってからである。

1500坪の畑を、召平と浩の二人だけでたがやす。雨の降らない日は、早朝から暗くなるまで瓜畑で農作業に没頭する。召平にとって、戦(いくさ)も瓜作りもまったく同じだ。全身全霊を打ち込む。

みんなが驚いた。はじめの頃はその熱心さに驚いていたが、青々と葉が繁り、花が咲き、大きな実を結ぶころになると、百姓としてのその力量にみなが感嘆する。肉厚の甘みの強いハミ瓜を、近所の人を多数を呼び、召平の家でふるまう。弟の娘が10キロをゆうに超えるハミ瓜を、肩に背負って畑から収穫してくる。包丁で切り、各人の前にならべる。

「これほど旨い瓜は食ったことがない!」
「平は瓜作りの名人じゃ!」

みんなが口々に絶賛する。ある古老に至っては、「まったくの素人が、これほどの瓜を、、、、、」
と言ったきり絶句して、恐怖に近い狼狽ぶりを示した。
















2020年7月20日月曜日

東陵の瓜(14)

長安郊外の召平の実家に着いたのは、前199年2月である。この時、召平の懐中はまったくの無一文だった。

二人は、長安まで2日ほどの潼関(どうかん)という町で、ここ一番の高級旅館に数日間泊まる。
連日酒を飲み、軍資金の残りをきれいさっぱり使い切る。余ったかね全部を、宿の者に「旨い弁当を二日分作ってくれ」、と言って手渡した。

宿に作らせた弁当を背負い、二人は元気いっぱいで出発する。人気のない山中の大きな池の前で最初の弁当を食う。食い終わると、弁当を包んでいた竹の皮に、秦からもらった東陵侯の金印と金の爵(しゃく・酒を飲む杯)を包み、目に前の池に惜しげもなくドボンと投げ捨てた。これは召平にとってのけじめの儀式であった。

「ああ、せいせいしたわい。これで秦との縁は切れた。十五の春、身体一つで家を出た。五十の今、手ぶらで家に帰る。幸いにも身体は健康だ。これを幸運と言わないで何が幸運か。畑を耕せばちゃんと食えると爺さまはおっしゃっていた」

召平はそう思い、微笑を浮かべながら浩と一緒に旅の足を速める。


実家は何も変わっていなかった。杏(あんず)も桃も棗(なつめ)の木も、35年間で大きく成長して元の場所にある。両親は思ったより元気そうだ。

「ようもどったなあ。ようもどったなあ」

母親は嬉しそうに二度つぶやいた。父は言葉も出ないのか、何も言わず、立ったままただ笑っている。泣いているようでもある。弟二人はそれぞれ家庭を持ち、本家の敷地の中に新屋(しんや)を建てている。二人とも大喜びで迎えてくれる。

「あんちゃんは偉いよ。大将軍になったのだからなあ。戦(いくさ)で怪我はせなんだか?」

敗軍の将という表現は少し違うが、そう言われて召平は嬉しいというより気恥ずかしい。
「秦は滅びてなくなった。大将軍さまも東陵侯さまも消えてなくなったよ。今は一介の布衣(ふい)だ」

「爺さまが亡くなられた時、親父が竹簡を送ったので届いたと思う。あんちゃんが東陵侯になって5年目だった。八十だから古希を十も超え村一番の長寿者だった。爺さまは日ごろから ”秦の天下は長くない。平は失業してもどってくる。五十になったらかならずもどってくる” とおっしゃっていた。
 ”昔からの我が家の農地七町歩は平のために残しておけ” といつも言っておられた。大将軍になり東陵侯にまで出世したあんちゃんが、この草深い田舎にもどってくるとは親父も我々も思ってもみなかった。爺さまはどうしてわかったのだろう?」

統一後の秦の後半になると、農地を手放す農民が増えてきた。爺さまは、頼まれてそれを少しずつ買い増していったそうだ。

「亡くなる前日も、 ”余裕ができたらどんどん畑を買い増しておけ。平はかならずもどってくる。” と言われた。だから親父も我々二人もがんばって農地を増やして、今では買い増した畑が八町歩ほどある。我々二人はこの八町歩で充分食える。元の畑はあんちゃんのものだ」と二人の弟は笑う。
















東陵の瓜(13)

劉邦が項羽を倒し、天下を統一して漢という国を建てた。都を長安に定めたことも知っている。

会稽の本営で項梁・項羽の配下にいた韓信は、早い時期に劉邦のもとに走り、手柄を重ねて大将軍となり、今や飛ぶ鳥を落とす勢いだとも聞いている。

あの季布は、最後まで項羽に忠義を尽くし、劉邦をさんざん痛めつけた。それゆえに、劉邦が天下を取ったのち、「一番のお尋ね者」としてその首に千金の賞金がかけられた。今は転々と地下に身を隠しているといううわさだ。

「季布は筋を通す男だったからなあ」、召平は可愛がった季布のことを時おり思い出すことがある。李照の竹簡には、季布のその後のことが書いてある。


「劉邦は季布の首に千金の賞をかけて、そのゆくえを探し求めていた。しかし、季布をよく知る周(しゅう)・朱(しゅ)という二人の大物の侠客と漢の高官・夏候嬰(か・こうえい)のとりなしにより、劉邦は季布を許した。いま季布は郎中(ろうじゅう・皇帝の護衛)という重職にある。劉邦はふところの深い人物で、長安の人心はこの男になびいている。これからは良い世の中になると思う」

弟か子供のつもりで、その成長を期待していた季布が生きていて、なおかつ漢の重職で活躍していると聞き、召平はなによりも嬉しい。「そうか。季布は助かったのか。それにしても劉邦という男は底知れぬ器量の持ち主だなあ」

そして、最後に、こう結んである。

「召平の両親は七十を超えたが、元気で下僕たちに農作業の指示をしている。弟二人も嫁をもらい、元気でそれぞれの家庭を営んでいる。召平もそろそろ長安にもどってきたらどうか。子供の時のように仲良く愉快にやろうではないか」

李照は竹馬の友だ。召平と同い年で、川や山で遊ぶときはいつも一緒だった。

「長安に帰るか」

間もなく五十になる召平は思った。裕と浩の気持ちを尋ねてみる。5年前に村の父老の孫娘を嫁にもらい、二人の子供のいる裕はこの地に残り、独身の浩は長安に同行することに決まった。



2020年7月13日月曜日

東陵の瓜(12)

三人は汨羅の地に到着する。

地元の農夫に聞き屈原が身を投じた淵におもむく。そのあと、近くにある彼の墓に詣でる。村人に聞いてその郷の父老(ふろう)を自宅に訪問する。

「三閭大夫公の霊を弔うためしばらくこの地に住みたいのですが。お許し頂けないでしょうか」
召平は身を低くして丁寧に希望を伝える。突然の来客に、はじめ父老の対応はぎこちなかった。しかし、屈原の墓に詣で花を手向ける旅人に悪い感情は持たない。

「よろしかったら、しばらく宅(うち)に泊まりなされ」と親切に招き入れてくれる。秦の東陵侯の爵位を持つことは絶対に言えない。「屈原を崇拝する旅の道者である」と述べ、この地を去る日までそれで通した。

三人は朝起きると、すぐに屈原の墓に詣でる。草を刈り、墓の周りを掃除して、花を手向ける。
ただそれだけのことを繰り返すだけで、ひと月もしないうちに村人の評判になる。「あれは賢者だ」と。礼儀正しく、律義に宿代・食事代を払う3人の旅人に、父老が心を許すのにさほどの時間はかからない。父老の好意で、彼の屋敷の一角に三人が住める程度の小さな家を建てたのは、ここに来てわずか半年後のことである。


この汨羅の地も、秦の役人は追われ無政府状態になっていたが、各郷の父老たちの団結と指導で村の治安はよく保たれている。田畑の地味は肥えている。洞庭湖の恵みも大きい。農業・漁業の収穫量は多く、人々のくらしは他の地域よりずいぶん豊かに感じられる。

父老や村人に頼まれ、召平は子供たちに論語・老子・荘子などを教える。「論語だけではだめだ。子供にも老荘を教えるべきだ」、これが召平の考えである。裕・浩の二人も長年召平のもとにいるので、子供たちへの手ほどきぐらいはできる。

子供たちを教えるだけでは時間が余り身体もなまる。父老に相談すると、快く3反(900坪)ほどの畑を使わせてくれるという。三人で耕し、何種類もの野菜を植える。ほかの野菜は二人にまかせ、召平はもっぱら、広陵の時のようにまくわ瓜の栽培に熱を入れる。

子供たちからは授業料は取らない。親たちはお礼のつもりであろう。洞庭湖で採れる魚・蝦(えび)・蟹(かに)・蜆(しじみ)などを持ってくる。なかには「精がつきますぜ!」と生きたスッポンを手にさげてくる者もいる。米・麦・酒を持参する親たちもいる。

文字通り、自給自足の楽しい日々が続く。雨の日はもっぱら書を読む。父老の家には三閭大夫・屈原公自筆の竹簡や木簡が残っていた。八十になる父老は、子供の頃屈原を見たことがあるという。これら屈原自筆の詩を見せられた時、召平は感激で身体が震えた。

近郊の父老たちの宴会に招待されたり、村祭りには主賓格で呼んでもらったりもする。
汨羅郷の父老は太鼓の名手だ。各郷の父老たちとの宴会で歌がはじまると、この老人が太鼓で音頭をとる。「やってみなされ。面白いですぞ」、父老に勧められて、召平は太鼓の稽古をすることにもなる。

当初は2-3年のつもりでいたのだが、なんとも楽しい毎日で、汨羅での生活は7年に入った。そして7年目のある晩秋の午後、久しぶりに故郷の長安から便りが届く。李照(りしょう)という名の幼なじみからである。





東陵の瓜(11)

急ぐ旅ではない。

馬でゆっくりと西に進む。15日目の昼過ぎ、目的の地に到着する。洞庭湖(どうていこ)の南に位置する汨羅(べきら)という村だ。

じつは召平は、10年ほど前から、ある人物への思いが強くなっていた。戦国時代、楚の三閭大夫(さんりょたいふ・副宰相格)であった屈原(くつげん)である。その思いは、興味から憧憬、さらには尊敬へと変化してきている。

屈原が没してすでに70年になる。召平からみれば敵の指導者だった人物で、当然快くは思っていなかった。頑固者のくせに女に手のはやい好色者だと聞いていた。秦の武将のころ、先輩の将軍からこのように教えられていた。

「楚の懐王(かいおう)が寵愛していた鄭袖(ていしゅう)という女性と情を通じた屈原は、その事実を王に悟られた。屈原は手勢を連れて楚の都から逃げる。洞庭湖の近くまで来たものの、王様の兵隊はなおも追ってくる。漁民に小舟を借りてなお逃げる。とうとう逃げきれなくなり、もはやこれまでと、汨羅に身を投げた。間男(まおとこ)が追っ手から逃げ切れなくなって自殺したのだ」と。

ところが、10年ほどまえ広陵の地に赴任して、楚の人々がこの屈原を敬慕していることを知る。
はじめの頃は、広陵の人々は秦の東陵侯である召平を警戒して、口をとざしていた。ただ、屈原の命日である5月5日になると、村人は粽(ちまき)をつくり、何か儀式のようなことをしている。

これを問うてみた。召平の人柄がわかるにつれて、村人はポツリポツリと屈原の逸話を話してくれるようになる。広陵の人々はこう言うのだ。

「屈原は博聞強記で、民のしあわせを願う仁徳の政治家だった。楚の懐王は彼をおおいに信任していた。上官大夫(じょうかんたいふ・官名)・斳尚(きんしょう)は屈原と同列であったが、王の寵愛を争って心ひそかに屈原の有能をにくんでいた。斳尚はないことまで王に告げ口をして、屈原は洞庭湖近くに流罪になった。その地で、国の将来を憂い ”楚辞” といわれるいくつもの憂国の詩を残す。何度も中央復帰を試みたが叶わず、ついに石をふところに入れて汨羅に身を投げた死んだ。汨羅の村人はそれ以来、屈原を偲び、命日の5月5日になると粽をつくり湖に投げ入れている。魚どもよ、屈原様を食べてはいけないよ。この粽を食べてくれと」

広陵の人から「楚辞」を借り受け読んでみた。同時に古老たちから話を聞き、召平は理解する。
屈原が「合従連衡・がっしょうれんこう」の「合従」派の急先鋒だったことを。すなわち、対秦外交では、「韓・魏・趙・燕・楚・斉の六ヵ国が団結し秦の領土拡大の野望を防ぐべし」との考えであった。

しかし、屈原が江南の地に流された直後、政敵の斳尚(きんしょう)は、秦王の意をくむ遊説家の張儀(ちょうぎ)が主張する「連衡策」を受けることを楚王に進言する。これにより、楚は日に日に領土を削減され、ついに秦に滅ぼされてしまった。

「70年の昔、屈原は秦の法治主義による統治が、人々に幸福をもたらさないことをすでに見抜いていたのではあるまいか」

召平はそう思った。そして、秦の悪政により日に日に困窮の度を増す農民の姿を見るにつけ、この人物に対する強い尊敬の念へと変化していった。

「できることならば、将来、屈原公の墓の近くにあばら屋を建て、その霊を弔いたい」

ここまで、召平の屈原崇拝の気持ちは高まっていたのである。













2020年7月9日木曜日

東陵の瓜(10)

みんな行ってしまった。召平と二人の部下だけが残った。

30人の身の振りようは、昨日の朝決めている。みなを集め、会計係の男に命じた。
「残りの軍資金を40等分せよ」と。10人の戦死者の遺族にも渡そうと考えたのである。一家の生活費の2年分ほどの金・銀を配り終えて、召平は言う。

「今まで本当に良くやってくれた。厚く礼を言うぞ。軍は明朝出発する。これからはみなの思い思いの行動をとるがよい。広陵に帰るのもよし。項梁・項羽の軍に従うもよし。わしについてくるのもよし」

そして、付け加えた。

「広陵の県令は、孫義(そんぎ)によって先月首を刎ねられた。孫義のことはお前たちもよく知っておるだろう。いま広陵の地は無政府状態だが、実質孫義が支配している。だからお前たちの身にはなんの心配もない。むしろ義士として迎えられるであろう」

先日建康を発つとき、一人を郷里の広陵に派遣していた。広陵の現状がどのようになっているかの偵察のためだ。その男が昨日持ち帰った、最新の情報である。

孫義は30過ぎの広陵の無頼漢だ。県の役人と衝突した時、二度ほど助けたことがある。季布とは違うタイプだが、この男も召平を慕っていた。というより、召平が決起したとき、孫義は自分が副将格として召平と一緒に行動するつもりでいた。

「それはならぬ。今は重病の母親のもとにいて看病をしてやれ。時機がきたらわしに合流せよ」
食い下がる孫義を、召平はこのように諭し、決起の仲間からはずした。ふた月まえにその母親は亡くなった、と伝令は言う。

「侯はどうなさるのですか。一緒に広陵に帰らないのですか?」

「わしには考えがある。十年もすれば世の中は落ち着くであろう。当分のあいだ旅に出ようと思うのだ。わしのことは一切心配はいらん。まだ四十ゆえ、一人でも大丈夫じゃ。おのおの自分の思う通りに決めよ」

21人が広陵に帰り、7人が軍に従うことに決めた。朱裕と葉浩の二人が召平に同行を申し出て、召平はこれを許す。裕は召平が東陵侯になる以前から従っていた下僕で31歳になる。浩は芋を一緒に植えたとき最年少の少年で、季布の友人である。27歳になる。三人は会稽の宿に二晩泊まる。

二日目の夕食のとき、「侯の今までのご努力はなんだったのでしょうか。その苦労ははたして報われたのでしょうか、、、」と裕が独り言のようにつぶやく。しばらくの沈黙のあと、召平は答える。

「人生の禍福はにわかに論じがたし。と昔の賢人は言われた。報われるとか報われないとかは眼中に置くべきではない。正しいと思うことを突き進めば、人間はそれで充分生きたことになるのだ」

三日目の朝、「西に行こう!」
召平は二人に静かに言った。








2020年7月8日水曜日

東陵の瓜(9)

「張楚上柱國印」の金の印綬を渡そうとすると、項梁はそれをさえぎる。

「しかるべき儀式が必要かと思います。その儀式の席で、今一度、兵や群衆の前で勅命を賜りたいと存じます。そのあとで印綬をお受けしたいと思います」

なるほど、もっともである。この男、馬鹿ではない。召平は妙に感心する。

項梁は現状を次のように語る。

「兵は現在六千おります。将校は五百。将軍は甥の項羽(こうう)を筆頭に、鍾離昧(しょうりまい)・季布(きふ)・韓信(かんしん)を含めて十人。いずれも十万の兵を指揮する力量がございますゆえ、百万の兵であれば今すぐにでも統率できます。項羽はいま、南方で兵を募っており、あと三日もすれば二千の兵を連れてもどってまいります。そのあとで、儀式の日取りを決めさせてください。近郊の群衆を多数集めて、盛大な儀式を執り行いたいと思います。それまでは、ごゆるりとお身体を休められてください」

翌日から、毎夜の宴会になる。仮の駐屯地ながら、山海の珍味がぞくぞくと運ばれてくる。これをもってしても、会稽の民衆が項梁を強く支持していることがよくわかる。接待係の将軍は日ごとに替わる。召平の目から見ても傑物がそろっている。

三日目の晩、季布が接待係として顔を出す。給仕係の男女は入れかわり料理や酒を運ぶが、他の将軍や将校は同席しない。召平と季布は、それ以降のことを存分に語り合うことができた。

「項梁殿と項羽殿が、会稽の郡守・殷通(いんつう)の首を斬ったのは三ヶ月ほど前です。自分は7年前から項梁殿に仕えております。同時に、甥の項羽殿に剣術や学問を教えておりました。項羽殿は気性が激しく個性の強いお方ですが、いわば天才です。ゆくゆくは、項梁殿はこの甥に総大将の地位を譲る気でおられます。ほかの将軍の意見は聞かないが、私の言うことには耳を傾けてくれます。項羽殿が十七歳のときから、兄弟分として付き合ってきたからでしょう」

召平は気になっていることをたずねる。

「俺のことは項梁にどこまで話しているのだ?」

「すべて本当のことを話しました。項梁殿は勘の鋭いお方です。そのほうが良いと思いましたので。長安の農民の出で一兵卒から大将軍・東陵侯になられた。自分は一年間その館でお世話になった。ただ、軍歴は蒙恬大将軍のもとで北方の匈奴征伐が中心であり、楚への遠征軍の中には加わっていない。しかし、このことは項梁殿の胸に秘めて、激情家の項羽殿の耳には入れないほうが良いと思います。と述べ項梁殿も同意されました。ただ陳王の勅使ということは間違いのない事実です。と言ってあり、項梁殿はそれを信じておられます。先日、侯の部屋を訪問した時は、同僚の韓信が何かを感じたのか、部下の将校に私を尾行させていたのが判ったので、早々と失礼した次第です」

完璧な対応である。それにしても季布は項梁によほど信頼されているらしい。


軍団が出発する朝である。空は快晴だ。色とりどりの旗やのぼりが風にはためいている。
項梁は項羽以下の将軍に命じ、今日の儀式のことを四方八方の住民たちに喧伝していた。
八千の将兵を、十万の群衆が仰ぎ見るようなまなざしで取り囲んでいる。

召平は、しんみょうな顔で直立する項梁に重々しく命令を下す。項羽以下の将軍たちも緊張した顔つきでかたずを飲んでいる。

「卿(けい)を張楚国の上柱国に任ず。江南の地はすでに平定された。ただちに兵を率いて北進し秦を滅ぼすべし」

同時に金の印綬を項梁に手渡す。

そのあと、項梁が檀上に立ち、ひと声大きく発す。

「前へ!」

八千の将兵は、「大楚! 大楚! 」と叫びながら、一団、また一団と隊列を組んで、北に向かって進軍していった。十万の群衆は狂ったように、「大楚! 大楚!」の歓呼の声を張り上げて、最後の兵士の一人が見えなくなるまで、その軍団を見送った。



















2020年7月5日日曜日

東陵の瓜(8)

一行は非常な厚遇を受ける。館の中に招き入れられ、湯を浴びるようにすすめられる。
その後、召平は一人で貴賓室に、他の者たちは別棟に案内され夕食をふるまわれた。

夕食の膳がさげられたあと、季布が一人で召平の部屋をたずねてくる。
「お懐かしゅうございます。その節は大変お世話になりありがとうございました。項梁どのが明朝、勅使どのにお目にかかりたいと申しております」

季布はこれだけ言って、すぐに部屋から出て行った。召平には二人だけで語りたいことが山ほどある。おそらく季布も同じであろう。ただ、季布がこのような態度をとるには、それなりのわけがあるに違いない。信を季布の腹中に置く召平は、彼を呼び止めることはしなかった。


翌朝、季布に連れられて項梁との会見の場所に移動する。「帯剣のままで」と季布は言う。項梁がそのように指示したのであろう。誰もいない貴賓向けの部屋の上席に座らされる。季布はすぐに出ていく。

「帯剣のまま俺を上座に座らせるということは、項梁は勅命を受ける腹だ。説明はいらぬ。頭ごなしに勅命を申し渡すのが一番良い」

一人の男が剣を帯びないで入ってくる。この男が項梁か。自分より十歳ほど年長であろうか。召平の前に来ると、両ひざをまげ、頭を床につけて拝礼する。あきらかに勅使をむかえる作法である。
召平は威厳を込めて声を励ます。

「秦の悪政により民は塗炭の苦しみにあえいでいる。張楚王・陳勝は卿(けい)を楚の上柱国に任ず。江南の地はすでに平定された。ただちに兵を率いて北進し、秦を滅ぼすべし」

項梁はだいたいの予想はしていた。しかし、「楚の上柱国」という官名を聞いたとたん、その身体に熱いものがこみあげてくる。大宰相を意味するこの官名は、楚の国独自のものだ。父の項燕は大将軍に昇ったものの、上柱国の地位には就けなかった。この「楚の上柱国」の官名を御旗に掲げて北進すれば、楚の豪傑どもはあらそって俺の傘下に入ってくるに違いない。


「謹んでお受けつかまつります」

項梁は緊張した声で、はっきりと答えた。












2020年7月1日水曜日

東陵の瓜(7)

建康では最高級の旅館を宿とする。

軍資金はたっぷりある。部下を充分に慰労することができた。呉服商を呼び全員の衣服を新調する。項梁・項羽の陣営に行くにはそれなりの格好をしておかなくては、との計算もある。

もう一つ大事なことがある。

建康の町で一番の鋳物師(いものし)を宿に呼び、法外な金(かね)を渡して言った。
「純度の高い金(きん)を使い、急いでこの文字の印綬を造ってくれ」
ー張楚上柱國印ーと書かれてある。このような準備に十日間を要し、召平一行は会稽に向かう。

会稽は古くからの地名である。西周(せいしゅう)が殷を滅ぼしたすぐあとに、この辺りに大きな都市ができる。のちの地理でいえば、蘇州・杭州・紹興一帯である。項梁は後世の浙江省(せっこうしょう)のほぼ全域を抑えていると考えてよい。

六千の軍団をかかえていると聞く。以前の郡庁と郡守の館を接収した仮の本営だが、立派なものだ。正門を、10人ほどのいかめしい衛兵が警護している。

「何者だ! 名を名乗れ!」 衛兵の長(おさ)らしき下士官が大声で叫ぶ。

「ひかえろ! 頭が高い。お前たちではわからん。責任者を呼べ!」

召平の側近の王猛という猛者が、声を励まして一喝する。30人のきらびやかな服装に、衛兵たちはただならぬものを感じたらしい。1人が走って本営に入る。
しばらくたって、偉丈夫の将軍が3人の将校を連れて出てくる。年齢は案外若い。

「とっ、とっ、とっ・・・・・・・」その将軍はびっくりした顔でそこまで言って押し黙った。「東陵候どの」の言葉はかろうじて飲み込んだ。一瞬の判断が、この若い将軍の頭を走ったのであろう。

おどろいたのは召平も同じである。なんとその男は、10年ほど前に命乞いをしてやり、1年間広陵の館に預かったあの季布である。王猛をはじめ、30人の供の中には季布を知る者は何人もいる。供の一人の葉浩は季布の幼なじみだ。召平はうしろをふりむいて目で合図する。「まったく素知らぬふりで通せ」、みなは召平がそう命じたと理解する。

ここで東陵候などと呼ばれたのではたまったものではない。すべてが水の泡に帰す。項梁の父・項羽の叔父である楚の大将軍・項燕(こうえん)は、秦の将軍・王翦(おうせん)に首をとられた。当時、召平は蒙恬に従って北方警備の任にあり、楚の項燕討伐の軍には加わってない。しかし二人にとってはそれは関係ない。秦の大将軍ならすべて親の仇である。

「謹め! 吾は張楚国の陳王の勅使である!」召平は高飛車に一喝する。

季布は身を縮めるようにして頭を下げた。聡明な季布は、この一言で、召平が何を考えているのかをほぼ理解したようである。

(東陵候どののお芝居につきあわねばなるまい)

季布は瞬時に腹をくくる。召平の供の中にはなつかしい顔が何人も見えるが、季布は彼らをまったく無視する。「すぐに項梁どのにお取りつぎ申し上げます」と、勅使に対しての丁重な礼をつくし、門の中に入っていった。







東陵の瓜(6)

4ヶ月も大陸の東部を流浪しているが、兵の数は増えるどころか逆に減っている。秦の役人とのこぜりあいや、流賊団から襲われて手勢は30人になる。陳勝のいる陳のみやこへ接近することさえできない。

そのうち、秦の官軍が東進して、あちこちで陳勝の軍を撃破しているといううわさが耳に入る。召平は行くべき方角を失ってしまった。このような状況に至っても、召平は希望を捨てない。楽天的な智謀の人なのである。一晩の熟考ののち、次のように決心する。

「陳王・陳勝の勅使(ちょくし)になりすまし、会稽郡(かいけいぐん)の項梁(こうりょう)・項羽(こうう)の陣営に乗り込む。そして、項梁に張楚国の上柱国(じょうちゅうごく・宰相)の印綬を与え、秦を滅ぼすべしとの命令を下そう」

恐るべき大胆な発想である。

「陳勝軍は負けるかもしれない。残念だがそれはそれでやむを得ない。しかし、打倒秦の炎を消すわけにはいかない。沛(はい)で挙兵したという劉邦という男より、会稽(かいけい)の項梁のほうがはるかに有望に思える。なによりも氏素性が良い。項梁は秦に殺された楚の大将軍・項燕(こうえん)の息子だ。この男に (張楚上柱国) の印綬を与えれば、楚の人民は雪崩を打って項梁に従うに違いない」

召平には確信がある。
「項梁は馬鹿ではない。かならずこの印綬をありがたく受けるに違いない」

冷静に考えてみればわかる。項梁・項羽はすでに江南の地を制し、みずからを義軍と称しているものの、はたから見ればあちこちで決起している流賊団の一つの頭目にすぎない。陳勝自身がその最大の頭目ではあるが、彼はすでに張楚国を建て自らを陳王と称し、人々はそれを認めている。名前だけの張楚国であり、名前だけの陳王ではあるが、歴史はすでにそのように動きはじめているのだ。

項梁が今いちばん欲しいものは 「錦の御旗」 のはずだ。彼は自分が陳王の勅使(ちょくし)だということに疑問を抱くかもしれない。しかしたとえ疑問を持ったにせよ、かならずこの話に乗ってくるに違いない。

偽りの勅使になりすますことにも、ニセの印綬をつくることにも、罪悪感はまったくない。
「今にあってはこれが正義だ」とのゆるぎない信念がある。

しかし一抹の不安もある。項梁は冷静な男だが、甥の項羽は激情家だと聞く。項梁が不在で項羽が対応して話がこじれると、六千の軍団の中に30人で飛び込むのだから「袋の鼠」だ。全員が殺されることもある。

「ままよ、男一匹出たとこ勝負だ!」

馬の踵(きびす)をかえし、30人の部下に南進を命じる。そして、さらに半月の旅を続ける。揚子江を渡り、建康(けんこう・現在の南京)という大都市に着く。ここから会稽までは5日間の旅である。召平たちの一行は、ここで10日間逗留する。召平がこの建康の地に入った時、陳勝は部下に殺されていた。兵を挙げてわずか6ヶ月後のことである。だが、このことは召平はまだ知らない。正月早々の建康の地は、すでに梅の花が満開である。

長寿であることを貴とするならば、二十代で死んだであろう陳勝という男の一生は、まことに可哀そうなものだ。しかし、己の身を挺することで歴史の流れを一変させることが男子の本懐であるならば、それを実現できた幸運な人ともいえる。打ち上げ花火のような華麗な六ヶ月間を送って死んでいったこの青年は、後世の数多くの少年を奮い立たせる名言を残す。

「王侯将相(おうこうしょうしょう)、寧(いずく)んぞ種(しゅ)あらんや」
「燕雀(えんじゃく)寧(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」

ともに陳勝の口から出た言葉だ。名言の宝庫のような男である。
ただの土民ではなかったのかも知れない。